数に過ぎない。彼等は群集地平線の遙かかなたに輝く孤独なる星辰である。
 出版業者、演劇主任、所謂《いわゆる》批評家等は創作に離るべからざる「質」を無視して、その売れ行きと俗受とを先《ま》づ問題とする。悲しいかな、俗衆の口は塵芥箱《ごみばこ》の如く、心力の咀嚼を要せざるもののみを受入れんとする。その結果として平凡陳腐なる作物のみが代表的作品として歓迎せられるのである。
 芸術界に於ても同一の悲しき事実に面することは改めて云ふまでもない。所謂芸術製造品の俗悪と醜さとが知りたければ公園や大通りを観察して歩けば直にわかることである。俗悪なる多数趣味以外になにものかかくの如き芸術の蹂躙を黙許することが出来よう。都市の随所に簇立せる銅像の類は悉く低級虚偽の作品のみであつて、真の芸術に比する時は恰《あたか》かもミケルアンヂエロの作物に対する土人の偶像であるかの如き観がある。然しそれ等が成功に価する唯一の芸術品である。社会の既成観念に囚はるることなく、自在に独創を発揮し、ひたすらライフに真実ならんと努力する芸術的天才は常に惨憺零落の生涯を送る。勿論彼の作物と雖《いえど》も何日か弥次馬の玩弄品となる時があるかも知れない。然しそれは少なくとも彼の心血が悉く注ぎ尽された後である。
 今日の芸術家はかの古《いにしえ》のブロメシヤスの如く絶へず経済的必迫の巖上に縛せらるるが故に自由なる創造に従事することが出来ないのであると一般に云はれてゐる。然しながらそれは孰《いず》れの時代を問はず常に真の芸術家に伴つてゐたことなのである。かのミケルアンヂエロすら保護者《パトロン》に依立してゐた。唯だ当時の芸術鑑識家は現代の盲目なる群衆とは遙かにその趣きを異にしてゐたのである。彼等は真に芸術の殿堂に参することを光栄と感じてゐた人々である。
 現代の芸術保護者は弗《ダラア》といふ唯一つの標準、価値を知つてゐる。彼は傑作の真質に関して全く没交渉である。彼は芸術品のために支払はるる金の価にのみ重きを置く者である。かくしてミルポウの『商売は商売だ』中の財政家はある不明な画を指して「如何《どう》ですこの傑作は、なんしろ五万フランですからな――」と云つた。現代成金の口吻そのままである。芸術品のために払はるる無意味の金嵩《きんがさ》は彼等の貧弱なる趣味の埋合せをしなければならない。
 思想の独立といふことが又社会に於て最
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