くて、寧ろ智凡尼が英仏海峡附近の地図と云った、下の血痕との間に挾まれている溝にあったのです。貴女が知らないと答えたのは、あのU字形の溝なんですよ。ねえ普光さん、聯想と云うものは、非常に正確な精神化学《メンタル・ケミストリー》なんですよ。あの二つの伝声管を繋いだとしたら、それがU字管になるでしょうからね。するとU字管には色々な現象が想像されますが、さしずめ、一本の伝声管の端に銛を作ったと仮定しましょう。そして、それに空気を激突させるような仕掛を側に置いたとしたら、そこでは下らない雑音に過ぎないものが、管の気柱を振動させて二階の孔からどう云う音響となって飛び出しますか――その事はとっくに御承知の事と思われます。いや、笙の蜃気楼を作った貴女の魔術を、私が此処でくどくど説明する必要はないのですよ。とうに貴女は、それを問わず語らずのうちに告白してしまっているのですからね」
 法水論理と巧妙なカマに掛かって、普光尼は一溜りもなく、その場に崩れ落ちてしまうものと思われた。所が意外にも、彼女の態度が見る見る硬くなって行って、やがて厳粛な顔をして立ち上った。
「いいえ、どうあろうと一向に構いませんわ。仮令《たとえば》、私が犯人にされた所で、菩薩にあるまじき邪悪の跡に、反証を挙げてさえ頂ければ……。けれども、孔雀明王が残した吸血の犯跡が、依然として謎である以上は、貴方の名誉心のために払わされる犠牲が、余りに高価過ぎやしないかと思われるのです。それよりも、寂蓮尼が期待している推摩居士の復活の方が、どうやら真実に近附いて行きそうですわ。この暑熱の些中に、一向腐敗の兆が見えて来ないのですから」
 斯うして、法水の努力も遂に徒労に終って、階下の密室が解けたと思うと、その一階上に、更に新しいものが築かれてしまった。が、法水は一向に頓着する気色もなく、その日は他の誰にも遇わず、経蔵の再調査だけをして、囂々《ごうごう》たる大雷雨の中を引上げて行った。所が、それから五日目の夜、突然検事が招かれたので法水の私宅を訪れると、彼は憔悴し切った頬に会心の笑を泛かべて云った。
「やはり支倉君、僕は考える機械なんだね。書斎に籠ると、妙に力が違って来るように思われるんだ。とうとう孔雀明王の四本の手を※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]いでやったよ。然し、それは偶然思い付いたのでなくて、例の浄善尼がした不思議な旋廻が端緒だったのだ」
 それから、法水の説き出し行く推理が、さしも犯人が築いた大伽藍を、見る見る間に崩して行った。そして、夢殿殺人事件は、漸くその全貌を白日下に曝されるに至った。
「所で、君にしろ誰にしろ、結局行き詰まってしまうにしてもだ。浄善尼が奇術的な廻転をした事が判ると、一応は、飛散した金泥に遠心力と云う事を考えるだろうね。そして、あの四本の玉幡が気になって来るのだが、あんな軽量なものには、たとえばそれを廻転させたにしても、結局それだけの分離力のない事が明らかなんだからね。あの一番手近な方法を、残り惜し気に断《あきら》める事になってしまう。けれども、あの玉幡に、重量と膨脹とを与えたとしたらどうなるだろう」
「なに、重量と膨脹を!」検事は眩惑されたような顔になって叫んだ。
「うん、そうなんだ支倉君、結局そう云う仮定の中に、犯人の怖ろしい脳髄が隠されていたのだよ。とにかく、順序よく犯行を解剖して行く事にしよう。所で、事件の直前から、犯人が夢殿の中に潜伏していたと云う事は、当時各自の動静に、確実な不在証明《アリバイ》が挙がらなかったのを見ても明らかだろう。だが、却ってそれが、この場合逆説的な論拠になるとも云えるんだ。そして、何処に隠れていたかと云う事は、あの当時の夢殿が、油火一つの神秘的な世界だったのだから、それは改めて問う迄もない話だろう。所で、浄善の昏倒と推摩居士の発作が適確なのを確かめると、犯人は四本の玉幡を合せて、繍仏の指に凸起《とっき》のある方を内側にして方形を作り、それを三階の突出床の下に吊して置いたのだ。そして、愈《いよいよ》画中の孔雀明王を推摩居士の面前に誘《おび》き寄せたのだが……、そうすると支倉君、あの神通自在な供奉鳥は、忽ちに階段を下り、夢中の推摩居士に飛び掛かったのだよ」
 そう云ってから法水《のりみず》は、唖然とした検事を尻眼にかけて立ち上り、書棚から一冊の報告書めいた綴りを抜き出した。そして、それを卓上に置き、続けた。
「もとより画中の孔雀が抜け出すと云う道理はないけれども、それが孔雀明王の出現と云えるのには他に理由がある。と云うのは、推摩居士の異様な歩行が始まったからなんだ。君は、ヒステリー痲痺患者の手足に刺戟を与えると、様々不思議な動作を演ずると云う事実を知っているだろう。然しその前に、所謂体重負担性断端――それを詳しく云うと、
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