ます。つまり、智凡が見たと云うのは、笙を吹いていた犯人の影と云う事になりますが、さてそうなると、浄善の屍体を動かした犯人が、その場は三階へ隠れたにしてもです。一体どうして、それから、あの場所を脱出したものか――問題は再び密室で行き詰まってしまうのですよ」
「それが取りも直さず、孔雀明王の秘蹟では御座いませんか?」と盤得尼は、透かさず眉を張って尚も執拗に奇蹟の存在を主張するのだった。それを、法水は冷笑で酬い返した。
「然し、この点だけは、誤解なさらないで頂きたいのです。貴女にしても、ただ智凡尼の推測から解放されたと云うだけで、つまり、謬説から遁れたと云う事は、正しい推定から影を消したと云う事にはなりませんからね。大体他の三人にしたところが、当時の動静を、的確に証明するものがない始末ですから。いずれ、僕が密室を切開した際に、改めて四人の顔を、膿の上へ映してみる事にしましょう」
 盤得尼が出て行ってしまうと、法水は衣袋《ポケット》から一枚の紙片を取り出した。それには、次のような文字が認められてあった。
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黄色い斑点の中に赤黒い蝙蝠《こうもり》――盤得尼
全部暗褐色の瓢箪――寂蓮尼
真黒な英仏海峡附近の地図――智凡尼
普光尼は答えず。
[#ここで字下げ終わり]
「成程、心理試験か……」検事が訊ねるともなしに呟くと、この一葉の上に、法水が狂的な憑着をかけているのが判った。
「うん、推摩居士の行衣の右袖に、瓢箪形の血痕があったっけね。その印象を、僕は求めたのだよ。で、これを見ると、各自が一番印象をうけた時の位置と、大凡《おおよそ》の時刻が判るんだ。盤得尼のは階段を下りながら、正面から光線をうけた時眺めたものなんだ。寂蓮と智凡は横手からだが、陽差の位置に依って、眼に映った色彩が異っている。扨《さて》、これからどう云う結論が生れるか、今はまだ皆目見当がつかないのだがね。然しこれだけ集めるのに、僕は大変な犠牲を払ってしまったよ。寂蓮尼に、推摩居士の屍体を解剖しないと約束してしまったのだ」

  三、吸血菩薩の本体

 それから三日後に、法水と検事は再び寂光庵に赴いた。が、それまでに彼が得た情報と云えば、穴蔵に横たえた推摩居士の屍体に、瑜珈式仮死を信じている寂蓮尼が凄惨な凝視を始めた――と云う事のみだった。その食事も採らず一睡もしない光景からは、聴くだけでも、慄然《ぞっ》とするような鬼気を覚えるであろう。二人が寂光庵に着いた頃は、恰度雷雨の前提をなす、粘るような無風帯の世界であった。が、入るとすぐに普光尼を呼んだ。然し、法水だけは、案内の尼僧が去ると同時に室から出て、普光尼が来てから大分経って戻って来た。
「僕は貴女だけに聴いて頂いて、当時貴女が、伝声管から聴き洩らした音を憶い出して頂きたいのです。所で、その前に、犯人が一体どう云う方法で、密室から脱出したものか――それをまず、お話する事にしましょう」
 ああ、法水は何時の間にか、密室の謎を解いていたのだ。彼が語り始めた犯人の魔術とは、一体何んであったろうか?
「僕がこの説を組立てる事が出来たのは、多数の手や首を持っている、所謂多面多臂仏の感覚からなのです。所で、御承知の通り夢殿には、階下の正面に、殆んど等身大と思われる十一面千手観音の画像が掲っています。そして、僕がその感覚に気付いたと云うのは、恰度事件当日四時半頃の事なのでした。その時表面の厨子扉には、横手の※[#「木+需」、第4水準2−15−67]子窓が黒漆の上に映って居りました。所が、それから網扉を開くと、正面の千手観音に不思議な運動が起るのを見たのです。と云うのは、最初厨子扉に映った※[#「木+需」、第4水準2−15−67]子を見詰めて、それから網扉に嵌まっている縦桟の格障子を見たからなんです。つまり※[#「木+需」、第4水準2−15−67]子窓の残像が縦桟の間に挾まって――そうした時に網扉を開いたのですから、当然一つの実像と一つの残像とが交錯して、そこに所謂驚盤現像(縦穴の並んでいる円筒を廻転させると、内部の物体が動くように見える活動写真的現像)が起らねばなりません。然しその現象は、網扉が眼前から去ると同時に、当然止むだろうと思うでしょうが、事実は、その後も暫く続いて居りました。多分、視軸に影響して廻転が続くので、それにつれて、やはり以前通りに動いたのでしょう。すると、眼前の十一面千手観音にどう云う現象が起ったと思いますね。臂を上方に立てている肩口の七本と、下に向けている腰辺の四本が……、各々が一本の手になってしまって、その手を左右に振っているかのような錯視が現われたのです。つまり、残像の列と符合している縦の線が、目撃者に動いたように見えたからなんですが、同時にそれにつれて、全身の線や襞が、不気味な躍動を始めて来ま
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