んか。推摩居士が、真実竜樹の化身ですのなら、何故南天の鉄塔を破った時のように、七粒の芥子《けし》を投げて、密室を破らなかったのでしょう」
「成程、それは面白い説ですね。所で貴女は、浄善の死因に就いて何か御存知なようですが」
「実は、誰にも云いませんでしたが、私、犯人の姿を見たのですわ」
「何んですって※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」検事は思わず莨を取り落したが、智凡尼は静かに語り始めた。
「済んだ合図の笙が鳴ったので、鍵箱から厨子扉の鍵を出して、網扉を明けますと、天井の格子に何か急いで複雑な動作をしているような影が映りました。そして、鳴っていた笙がピタリと止んでしまったのです。然しその時は、側の推摩居士に気が付いたので、私は暫くその場に立ち竦んで居りました。けれども、間もなく気を取り直して、階段の上まで上ってみますと、浄善さんはあられもない姿で、両袖で顔を覆って仰向けになって居りました。ああそうそう、その時階下には誰も居りませんでしたが……」
「そうしてみると、現在の浄善とは、屍体の状態が異う事になる」と云って検事が法水を見ると、法水も慄毛《そうけ》立った顔になっていた。
「浄善がその時まだ生きていたか、それとも屍体が動いたか――だよ。けれども、強直が来ない前は微動する訳もない筈だぜ」
「そうです。生きていた浄善は、その後に殺されたのですわ」智凡尼はグイと刳るような語気で云った。「だって、推摩居士が魔法のような殺され方をしているのを、眼前に見ながら、その側で凝っとしていると云う訳はないでしょう。それに、私がそれからすぐ飛び出して、その旨を庵主に告げると、庵主は夢殿に入ったきりで、暫く出て来なかったのですからね。私と寂蓮さんはその後に見に行ったのですが、その時は、浄善さんの姿勢が変ったと云うだけの事で、他にはこれぞと云う異状も御座いませんでした。つまり、浄善さんが推摩居士を殺して、その浄善を庵主が殺したのですわ。此の論理には、ともかく中断が御座いませんわね。多分それで、庵主は一番いい夢を見る、阿片を造る積りだったのでしょう」
 そして、智凡尼はゲラゲラ笑いながら、出て行ってしまった。法水も同時に立ち上った。
「僕は鳥渡経蔵を見て来るからね。君は、盤得尼から浄善の屍体に就いて、詳細な要点を聴取しといてくれ給え」
 それから一時間程経って、二度目の網扉の音がしたかと思うと、再び法水が現われた。そして、検事と獣のような顔で、睨み合っている老尼に慇懃な口調で云った。
「御安心下さい。智凡尼の偏見が、これですっかり解けましたよ。支倉君、やはり浄善は、発見した際には死んでいたのだ」と一冊の書物を卓子《テーブル》の上に置いて、「貴女が蒐められた書籍の中に、大変参考になるものがありましたよ。これは、ロップス・セントジョンの『ウエビ地方の野猟』なんです」
「それで、何か?」
「その中に斯う云う記述があるのです。――予の湖畔に於ける狩猟中に、朝食のため土人の一人が未明|羚羊《かもしか》猟をせり。然るに、クラーレ毒矢にて射倒したる一匹を、捕獲したる鬣狗《ハイエナ》の檻際へ置けるに、全身動かず死したりと思いし羚羊の眼が、俄かに瞳孔を動かし恐怖の色を現わしたり――と。ねえ支倉君、浄善は最初に、微量のクラーリンを塗った矢針で斃されたんだよ。つまり、羚羊と同じに、運動神経が痲痺して動けなくなったまでの事で、その眼は凝然《じいっ》と、怖ろしい殺人模様を眺めていたんだ」
「冗談じゃない」検事は此処ぞと一矢酬いた。「一体、何処に外傷があるんだ」
「それが、襟足にある短かい髪の毛の中なんだよ」と法水が掌を開くと、その中から、四寸程の頭髪の尖を、巧妙な針に作ったものが現われた。「所で、僕がどうして発見したかと云うに、普光が笙の鳴っている間に聴いたと云う、妙な音響からなんだ。板の間を踏むような、ドウと云う音が二度ばかりして、その二度目の直後に、ブーンと唸るような音が聴こえたと云ったね。では、仮りにそれを、太鼓の両側の皮を、内側から強く引緊めて置いて、全然振動を、起させないようにしたのを打ったとしよう。そして、二度目にその緊縛が解けたとしたら、凹みの戻った振動でもって、恰度そう云うような唸りが起りはしないだろうかね。案の状、その思い付きからして火焔太鼓を調べて見ると、果して其処に、三つ針穴程の孔が明いていた。つまり、そのうちの二つは、皮の両側を引き緊めた糸の痕であって、またもう一つのには、二度目の撥で糸が切れ、両側とも旧《もと》の状態に戻った時に、その反動を利用する、簡単な針金製の弩機が差し込まれてあったのだよ」
 そうして、浄善の死因に関する時間的な矛盾が一掃されてしまうと、法水は再び、盤得尼に云った。
「とにかく、その発見からだけでも、貴女に対する疑惑は稀薄になり
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