世界が、御仏の掌《たなごころ》の中にあろうとは思われませんでした。私は推摩居士が悲し気に叫ぶ声を聴いたのです」
「なに、声をお聴きでしたか?」
「そうです。夢殿から庵主が出る網扉の音が聴こえて、それから間もなくの事でした。笙が鳴り出すと、それにつれてドウと板の間を踏むような音が聴こえました。そして、その二度目が聴こえると同時に、ブーンと云う得体の判らない響きがして、それなり笙も止んでしまったのです。それから二十分ほど後になってから、推摩居士が四本の手と叫ぶのを聴きましたが、二階のはそれだけで、今度は階下の伝声管から響いて参りました」
「すると、伝声管は二本あるのですね」
「ええ、階下の方は、恰度階段の中途で、横板と壁との間にありまして、それは、鳥渡判らない場所なので御座います。それで推摩居士が、今度は低い声で云うのでした」普光尼は幽かに声を慄わせ、異様な光を瞳の中に漂わせた。「宝珠は消えたが、まだ孔雀は空にいる――と斯う仰言《おっしゃ》るのでしたが、それから間もなく、二階で軽いものが飛び散るような音が始まりましたが、それが止みますと、今度はまた笙が鳴り出して――いいえ、無論それには、息を入れる所謂間が御座いましたのですわ。所が、その音は網扉が開くと同時に、パタリと止んでしまったのです。もう、これ以上、お耳に入れる事は御座いませんが」
「有難う。所で、推摩居士の屍体を御覧になりましたか?」と法水は、突然異様な質問を発した。
「ハア、先刻寂蓮さんと一所に……。それで、すっかり疲れてしまいましたのですが」
「すると貴女は、推摩居士の行衣の袖に、何を御覧になりましたね」
「サア一向に……。私、そんな事はてんで存じません」と普光尼は、いきなり突慳貪《つっけんどん》に云い放って、ふと首を向け変え夜具の襟に埋めてしまった。
「二本の伝声管か……」廊下に出ると、法水は意味あり気な口吻を洩らしたが、側の室が眼に入ると検事に向って、「どうだね支倉君、ここにある天平椅子にかけて、残りの訊問をする事にしようじゃないか」
最初に呼んだ寂蓮尼は、まさにゴッツオリの女だった。まだ二十六、七だろうけれども、見ていると透通ってでも行きそうな、何んとなく人間的でない、崇高な非現世的なものが包んでいるように思われた。所が、図書掛りを勤めているこの天使のような女は、事件当時経蔵にいた旨を述べ終ると、推摩
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