男でもなければ女でも御座いません。つまり、そうなりましたと云うのは、日独戦争の折炸裂弾をうけて、両足と或る器官を失ってしまったからなので御座います。然し不思議な事には、それ以後此の方に、竜樹菩薩の化影が現われるようになりました」
「それは庵主、この太腿で、一目瞭然たるものなんですよ」法水が白々し気に云い返した。「内側へ捻れているでしょう。これで下肢が完全ですと、恰度馬の足のような形が見られるのです。それを内飜馬足とか云いましてね、たしか外傷性のヒステリヤには、一番多く見る現象なんですよ。そうすると、変則な強直をしている点に、第一説明が付きますし、何より犯人が、その無意識状態を利用した許りか、日頃不思議な法術の種になっている|悪魔の爪《デイヴルス・クロウ》([#ここから割り注]中世紀の所謂魔女に現われた宗教性ヒステリー現象[#ここで割り注終わり])を、却って逆用した事がお判りになりましょう。然しこの梵字の創跡《きずあと》だけは、人間の手では到底不可能な芸でしょうな」
「|悪魔の爪《デイヴルス・クロウ》※[#感嘆符疑問符、1−8−78] そうなりますかね」盤得尼は怒りに顫えながらも嘲弄の響きを罩めて、「そうすると、あれは一体どうなるのでしょうか、お気付きになりませんか? 階段の頂上から此処までの間に、血の滴り一つないのですよ。ねえ法水さん、血みどろの推摩居士は、大体どう云う方法に依って此処まで運ばれて来たのでしょうね? それに、どう考えたって、自分の着衣に血を移すような愚かな自殺的行為を、第一犯人のする気遣いがないでは御座いませんか」
 事実盤得尼の云う通りだった。それまで二人ともそれに気付かなかったのは、光線の加減で五、六段から上が血溜りのように見えたからだった。それから、法水は階下の調査を始めたけれども、床の嵌戸に附いている錆付いた錠前を壊して、床下から数片の金泥を拾い上げたのみの事だった。そうして調査が、赭岩ばかりで出来た海底のように、仄暗い階下から離れて、階段の上に移された。
 然し、階段の中途まで来ると、さしもの彼も思わず棒立ちになってしまった。パッと眼を打って来た金色《こんじき》の陽炎《かげろう》に眩まされて、殺人現場と云う意識がフッ飛んでしまったばかりでなく、先刻盤得尼の手紙を読んで妄覚と笑ったものが、今や彼の眼前で、寒天のように凝り固まって行こうとしてい
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