それは、明らかに兆しのようなものだった。いまに誰かのうえに当然おこるであろう悲劇の前触れにちがいなかった。
 しかしそれよりも、末起を悲しませるものが他にあったのである。それは、もし合鍵があるにしろ掛金が下りる、扉をいかに開くか想像もされないからだ。すると、眼が当然、内部《なか》へむけられる。末起のほか、部屋にいるものといえば、お祖母さまよりほかにない。
(マア、お祖母さまなんて、まさか……。一分と、動けないのにどうしてそんなこと……)
 と、いくら頸を振っても、現実は否定出来ない。だんだんとその幅も短くなり、やがて、悲しむよりも、怯々と祖母を見るようになった。
(あの手、あの足だ……。萎え切ったのが、誰も見ぬときは、じりりと動くのかもしれない。私の寝息をうかがいそっと立ちあがり、毛を切るものといえば、お祖母さま以外にはない)
 つい先ごろまで、そんな考えが浮ぶと必死に打ち消していたのが、いまではそれを当然のように呟くのだ。気味悪い、猫の足の裏のようなお祖母さま……。あの、うごかない筋肉には、おそろしい虚妄がある。罪をかばい、よくマア、こんなにも永く芝居をしていたもんだ。
 と、その部屋に、今度は別種の鬼気が立ち罩めるのだった。近ごろは、ちんまりした祖母がいっそう小さくなり、奇絶な盆石が、無細工な木の根人形としか思われなくなったのが、白髪を硫黄の海のように波うたせ、そっと立ちあがる。ことに、夜のお祖母さまの怪ものめいた相貌――。入歯をとったあとの、歯齦がお鉄漿《はぐろ》のようにみえ、結ぶと、口からうえがくしゃくしゃに縮まり、顔の尺に提燈が畳まれてゆく。しかも、それが鋏を手に寝息をうかがう姿は、まさしく、妖怪画が夢幻以外のものではない。
 しかし、末起にとれば、現実の問題である。それに、祖母への愛着が異常にふかいだけに、削られる思いで困憊の底から思案あまって療養所へ救いをもとめた。すると、方子からは詳しくとのことで、返事を出すと、折返し手紙に一冊の本が添えられてきた。それは、ルイス・キャロルの有名な童話「|不思議国のアリス《アリス・イン・ワンダーランド》」であった。

  三、気味悪い祖母

(方子からの手紙)
 末起、あたくしはいま……情熱のはげしさを、なるべく言葉にしないよう注意している。末起が、どんなに苦しがっているか、そりゃ分るんですから……。
 愛もて……あたくしたちの間には、見えない帯がある。それだのに、末起には気味のわるい夜鳥のようなものがいて、夢に、あたくしが行くのが、きっと妨げられていると思う。でもあたくしも、熱や血の動揺がなくてはこの手紙が書けません。もっと、末起のため、犠牲があればいいがと思う。末起の浄らかな天上的肉体《ヘウンリイ・フレーム》――。
 お姉さまは、末起の悩みを身に体《たい》さなくてはならぬと思います。茨を踏んで、痛みと血をまた夢にかよわせましょう。しかし、末起の苦痛をすこしでも和らげることも、お姉さまの、神聖な義務《つとめ》だと思いますわ。末起は、あたくしが贈った本を、どうお思い?
 あなたの、苦悩と悲歎のなかへ童話の本を贈って、それで、悩みを滌ぎ和らげよというのではありません。なんでしょう? でも末起を、お姉さまの愛が、救えぬとは考えられません。
 これは、読んで読んで鼻についたほどの、アリスの不思議国行脚ですけど、このなかには、青蟲や泣き海亀やロック鳥などが、この世にない、ふしぎな会話をかわし人真似をしながら、暗喩寓喩の世界を真しやかに語りだすのです。で、それが、末起の悩みと、どんな関係になるでしょう。
 末起が、お祖母さまを下手人にはしたくない――それは、お姉さまにようく分ります。でもそれには、どうして末起の義父さまがあの部屋へ入ったか、だいいち、その証明が要ると思いますわ。それで末起は、ページを繰りながら朱線のあるところを、よく読んで裏の意味を考えるのです。いいこと……。では、最初のページの、四行目に、

 アリスは、なんで絵のない本が役に立つのだろうと、考えた。

 それは末起に、決して意味のない本だと思って、軽蔑してはいけないということ。それから、五行目に、

「可愛いダイアナ(猫の名)おまえが、一緒にくりゃ、どんなによかったろう。だけど、空にはまさか、二十日鼠はいないでしょう。だけど蝙蝠なら、捕まえられると思うわ。それは、二十日鼠にたいへん似ているものなの。でも、猫は蝙蝠を食べるかしらん」
 そろそろ、アリスは疲れはじめたらしく、夢心地で独り言をいい続けました。
「猫は、蝙蝠を食べるかしら……、猫が、蝙蝠を食べるかしら……」
 と、続いて、
「蝙蝠が猫を食べるかしら……」
 となったのは、まえの質疑に答えられなかったため、それが大変な間違いになってしまったのです。

 今度は六
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