錯覚を起してしまうのです。ですから、外に出たと思って中に入ろうとし、紙帳の垂れをまくって一足|膝行《いざ》ると、今度は反対に外へ出てしまうのですが、その眼の前に、一つの穽《あな》が設《しつら》えてあるのです。以前東京の本殿にございました、大きな時計を御記憶でいらっしゃいましょう。あの下にさがっている短冊形の振子を、先刻《さっき》十一時十分の所で停めておいたのです。そして、紙帳にある高代の二字がそれに小さく映るとしましたら、なんとなく、御霊所の母の眼に似つかわしいではございませんかしら」
滝人はそうしているうちにも、絶えず眼を、十四郎の寝間の方角に配っていて、廊下の仄《ほの》かな闇を潜っている物音なら、どんな些細なものでも、聴き洩らすまいとしていた。しかし、そこには依然として、この地峡さながらのごとく音がなかった。彼女はもう、渾身《こんしん》の注意に疲れきってしまい、その微かな音のない声にも、妙に涸《か》れたような、しわがれが加わってきた。
「ですから、催眠心理の理論だけから云っても、その場去らず、母の眼を見ると同じ昏迷に、あの男は陥ってしまうのです。さあ、どのくらい長い間、その場にじ
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