出来なくなっております。ちょうどこの白い触肢のある茸《きのこ》みたいに、ばらっと短い後毛《おくれげ》が下ってさえ、もう顔の半分も見えなくなってしまうのですから。ところが、あのお齢《とし》になってさえも、相変らず白髪染めだけは止めようとはなさいません。そして、私がこの樹立の中にまいりますのを、大変お嫌いになりまして、毎朝|行《ぎょう》をなさる御霊《みたま》所の中にも、私だけは穢《けが》れたものとして入れようとはなさいません。けれども、かえって私には、それが気楽でございまして、という理屈も、この瘤《こぶ》の模様が、眼も口も溶け去った、癩の末期のように見えるからなのだそうでございます。けれども、私にとって、何より怖ろしい事は、先日|秘《こ》っそりとお呼びになって、とうとう私の運命を、終りまでもお決めになってしまった事です。いまの十四郎が、もしかして死んだ場合にも、私だけはこの家を離れず、弟の喜惣《きそう》に連れ添え――って。ですもの、私に絶えずつき纏《まと》っているのが、そのしぶとい影だとしたら、たとえば悪魔に渡されようたって……。ええまったく、情も悔恨《くい》もないあの針を、それから私が、胸にしっかりと、抱くようになったのも、道理ではございませんか」
滝人は暗い眉をしながらも、そう云いながら、瘤の模様を眺めていると、十四郎のあの頃が、呼吸《いき》真近に感じられてきて、あああの恰好、これ――と、眼の前にありあり泛《うか》んでくるような心持がするのだった。しかし、すぐに滝人は次の言葉をついで、小法師岳の突兀《とつこつ》とした岩容を振り仰いだ。
「それから、次の花婿に定《き》められている喜惣は、あの山のように少しも動きませんわ。ここへ来てからというもの、体身《からだ》中が荒彫りのような、粗豪な塊《マス》で埋《うず》められてしまい、いつも変らず少し愚鈍ではございますけど、そのかわり兄と一緒に、日々野山を駆け廻っておりますの。それが、私の心を、隅々までも見透かしていて、私をいつか花嫁とするためには、いっそう健康に注意をし、何より、兄よか長生きをしよう――そう考えて、日夜体操を励んでいるとしか思われないのです。白痴の花嫁――そのいつか来るかもしれない、明日の夢のようなものが、私の心の中で、絶えず仄暗《ほのぐら》く燻《くすぶ》っているのです。いっそ焔となって燃え上がってしまえば、そのほうが、ほんとうにどんなにか……」
と或る場合に対する異常な決意を仄《ほのめ》かせて、滝人はきっと唇を噛んだ。しかし、その硬さが急に解《ほぐ》れていって、彼女の眼にキラリと紅《あか》い光が瞬《またた》いた。すると、鼻翼《こばな》が卑しそうに蠢《うごめ》いて、その欲情めいた衝動が、渦のような波動を巻いて、全身に拡がっていった。
「そして貴方、時江だけが、家族の中でただ一人、微妙な痛々しい存在になっているのです。もうあの人には、本体がなくなっていて、ただ影を落した、泉の中の姿だけが生きているようなのです。その娘は、冷たい清らかな熱のない顔付きをしていて、少しでも水の面を動かそうものなら、たちまちどこかへ消えてでもしまいそうな、弱々しさがございます。それですから、お母さまにはいつものように邪慳《じゃけん》で、我儘《わがまま》のきりをいたしますけれども、自分が受けようとする感動には、きまって億劫《おっくう》そうに、自分から目を瞑《つむ》っては避けてしまうのです。ええようく、私にはそれが判っておりますの。あの人は、兄の十四郎の荒々しさを怖れると同じように、やはり私の眼も――。いいえ私だって、あの人の側では荒い息遣いをしてもいかず、自分の動悸《どうき》でさえ、水面が乱れてしまうことぐらいは承知しているのですけれど、あの熱情を、貴方に代えて向ける人と云えば、時江さん以外に誰がありましょうか。まったくあの顔は、貴方生き写しなのですから。でも少し憔悴《やつ》れていて、顔に陰影のあり過ぎることと、貴方にあった――抱き潰すような力強さには欠けております。しかし、私の執念《しぶとさ》は、その詮《せん》ないことすらも、なんとかして、出来ることなら、より以上の近似に移そうといきみだしましたの。それで思いついたのを、なんとお考えになります? それが、実は、鉄漿《はぐろ》なのでございます。ああ、いまどき鉄漿をつけるなどとは――てっきり狂人《きちがい》か、不気味な変態者としかお考えになりますまいが、事実それは、どうしてもそうさせずにはいられない、私の心の地獄味なのでございますよ。で、なぜそうしなくてはならぬかと申せば、大谷勇吉の『顔粧《かおつくり》百伝』や三世|豊国《とよくに》の『似顔絵相伝』などにも挙《あ》げられておりますとおりで、鉄漿を含みますと、日頃含み綿をする女形《おやま》にもその必要が
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