きっと貴方は、稚市《ちごいち》を見れば、お駭《おどろ》きになるに違いありませんわ。あの子は、貴方が最初の人生をお終えになった、その後に生れたのですが、やはりあの子にも、貴方と同じ白蟻の噛み痕《あと》があるのです」
その頃は、雷雲が幾分遠ざかったので、空気中の蒸気がしだいに薄らぎはじめた。そして、その中へ一面に滲《にじ》み出したのは、今にも顔を出しそうな陽の影だった。すると、沼の水面で大きな魚が跳ねたとみえ、ポチャリと音がすると、そのとき池畔の叢《くさむら》の中から、それは異様なものが現われて出て来た。そこは、鋸《のこぎり》の葉のような、鋭い青葉で覆われていたが、いきなりそこ一帯が、ざわざわ波立ってきたかと思うと、それまで白い蘚苔《こけ》の花か、鹿の斑点のように見えていたものが、すうっと動き出した。そして、その間から、人間とも動物ともつかぬ、まったく不思議な形をしたものが、声も立てず、ぬうっと首を突き出した。
二、鉄漿《はぐろ》ぐるい
それが、騎西《きさい》一家に凍らんばかりの恐怖を与え、絶望の底に引き入れた、稚市《ちごいち》だった。その時、もし全身を現わしたなら、それは悪虫さながらの姿だったであろう。不吉な蒸気の輪が、不具の身体と一緒に動いていって、その手《て》が触れるところは、すぐその場で、毒のある何物かに変ってしまうだろうと思われた。しかし、あの醜い手足も青葉の蔭に隠れ、不気味な妖怪めいた頭蓋の模様も、その下映《したばえ》に彩《いろど》られていて、変形の要所《かなめ》は、それと見定めることは出来なかった。そして、腹に巻いてある金太郎のような、腹掛の黒さだけがちらついて、妙にその場の雰囲気を童話のようなものにしていた。けれども、稚市自身はどうしたことか、両腕をグングン舵機のように廻しながら、おりおり滝人のほうを眺め、ほとんど無我夢中に、前方の樹下闇《このしたやみ》の中に這い込もうとしている。だが、彼を追うているのは、ただ一条の陽の光りだけで、それが槲《かしわ》の隙葉から洩れているにすぎない。それを滝人は瞬《またた》きもせずに瞶《みつ》めていた。その眼は強く広く※[#「※」は「目+爭」、116−8]《ひら》かれていたが、眼前にかくも怖ろしいものがあるにもかかわらず、いつものように病的な、膜までかかったような暗さは見られなかった。それが、この物語の中で、最も驚くべき奇異な点だったのである。
実際、その観念は恐ろしいものだった。悪病の瘢痕《はんこん》をとどめた奇形児を生む――およそ地上に、かくも苦しいものが、またとあるであろうか。けれども滝人は、そのために、まったく無自覚になっているのではなかった。どんなに、威厳のある、大胆な考えでさえも、とうてい及ばないほど、彼女の実際の知識が、この変形児を、まったく異ったものに眺めていた。こうして見ていても、彼女の胸は少しも轟《とどろ》いてはいず、眼前にある自分の分身でさえも、まるで害のない家畜のように、自分にはその影響を少しもうけつけないといった――真実冷酷と云えるほどの、厳《おごそ》かさがあった。やがて、彼女は瘤《こぶ》に向って、肩を張り、勝ち誇ったような微笑《ほほえみ》を投げて云った。
「あれが癩ですって、莫迦《ばか》らしい。あの人達は、途方もない馬鹿な考えからして、一生涯の溜息《ためいき》を吐き尽してしまいました。まったくなんの造作もなしに、自分のものを何もかも捨ててしまったのです。けれども、それも稚市《ちごいち》が、迷わしたというのでもないのです。ただ知らない――それだけの事ですわ。でも、今になって、私が糞真面目な顔で、その真相をこれこれと告げる気にもなれません。あれが、癩ですって、いいえ、あの、眼を覆いたくなるような形は、実は私が作ったのです。[#「あの、眼を覆いたくなるような形は、実は私が作ったのです。」に傍点]あの時は、稚市どころか、どんな驚くようなものでも――私には、創り上げるだけの精神力が具わっておりました。断じて、癩ではございませんわ。その証拠には、これを御覧あそばしたら……」
そう云って滝人は、稚市を抱き上げてきて、膝の上で逆さに吊し上げ、その足首に唇を当てがって、さも愛撫するように舐《な》めはじめた。唾液がぬるぬると足首から滴り下《お》ち、それが、ふっ切れた膿《うみ》のように思えた。が、滝人には、そうしている動作にも、異様な冷たさや落ち着きがあって、やがて舐め飽《あ》きると、今度は試験管でも透かし見るように、稚市の身体を、これよとばかりに高く吊し上げた。
「このとおりでございますもの。稚市《ちごいち》のこれが、先夫遺伝《テレゴニー》でさえなければ……。まさに先夫遺伝《テレゴニー》なのでございますの。でも、私には貴方以外に、恋人もなければ、夫もないはずです
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