としげに擦《こす》りはじめた。
「ですから、当然私には、その夜から、貴方が病院をお出になる日が、またとなく怖ろしく思われてきたのです。なぜなら、どうしてそれまでに、真実貴方であるか、鵜飼邦太郎であるか分らない男に、抱かれる夜のことなど、想い泛《うか》べたことがあったでしょうか。いいえ、そればかりか、その後まもなく私は、高代という言葉を突き究めることができました。それが駭《おどろ》いたことには、鵜飼の二度目の妻で、前身は、四つ島の仲居だった女の名なのです。そこでようやく、この疑題の終点に辿りついたような、気がしたのでしたけれども、またそこには、着衣とか所持品とかいう要点もあって、たとえば、その二人の身長が、どんなにか符合しようと、また他にも、一致するような特徴が、あろうがどうだろうが、結局結論となると、変貌という――都合のいい解答一つで片づけられてしまうのでした。ああ、あの確証を得たいばかりに、毎夜私は、どんなにか空々しく、あの男の身長を摸索《まさぐ》っていたことでしょう」
滝人は上気したような顔になって、知らず知らず吐く息の数が殖えていった。彼女は唇を絶えず濡《しめ》し、眼を異様に瞬《しばた》たいて、その高まりゆく情熱から逃れようとしたが、無駄だった。やがて、柔かい苔の上に身体を横たえたが、過ぎ去った日の美しい回想やら、現実の苦悶やらが雑多と入り乱れて、滝人はさまざまな形に身悶えを始めた。
「あの閨《ねや》の背《たけ》比べ――恥ずかしがりやの私には、これまで貴方のお身体を、しみじみ記憶に残す機会がございませんでした。お互いに、いらぬ潔癖さがつき纏《まと》っていて、私達はまったく不鍛練でございましたわね。(以下四七一字削除)しかし、その中でただ一つ、はっきりと頭の中に残っておりますのは、あの背比べなのでございます。つまり、薦骨《こしぼね》の突起と突起を合わせてみると、双方の肩先や踝《くるぶし》にどのくらいの隔たりが出来るか……。(以下一八六字削除)それが、以前の貴方の場合とぴったり合ってしまうので、なおさら昏迷《こんめい》の度が深められてまいるわけなのです。なにしろ、片方は死に、一方は過去の記憶を失っているという始末ですから、どうせどっちつかずの循環論になってしまって、結局はその二人の幻像が、ああでもないこうでもないと、物狂わしげな叫び声を上げながら、私の頭の中を駈け廻るにすぎませんでした。ああほんとうに、あの仮面を見ていると、頭の中が徐々《だんだん》と乱れてきて、不思議な幻影があちこち飛び廻るようになってしまいます。ですけど、どのみちこの運命悲劇を、自分の力でどうすることも出来ないとすれば、結局相手を殺すか、私が死ぬかの二つの道しかないわけでございます。でも、それには、ぜひにも理由を決定しなければなりません。ところが、それが出来ないのでございます。あの決定《けじめ》がつかないまでは、どうして、影のようなものに、刃《やいば》が立てられましょうか。そうしますと、一方ではあの執着が、私の手を遮ってしまうので、結局宿命の、行くがままに任せて――。死児を生み、半児の血塊《ちだま》を絶えず泣かしつづけて――。ああほんとうに、あの鬼猪殃々《おにやえもぐら》の原から、生温《なまぬる》い風が裾に入りますと、それが憶い出されて、慄然《ぞっ》とするような顫《ふる》えを覚えるのでございます。ねえ貴方、それを露西亜《ロシア》的宿命論というそうではございませんか。帝政露西亜の兵士達は、疲れ切ってしまうと、最後には雪の中に身を横たえてしまって、もう何事もうけつけず、反応もなければ反抗もせず……」
そこまで、云いつづけているうちに、頭上にある栴檀《せんだん》の梢から、白い花弁《はなびら》が、その雪[#「その雪」に傍点]のように舞い落ち、滝人の身体はよほど埋まっていた。すると、それに気づいたのが、恐ろしい刺激ででもあったかのごとく、彼女はいきなり弾《はじ》かれたように立ち上がった。
「だいたい、隠されたものというのは、それが表に現われる日が来るまで、どうあっても、隠されていなければならないといいます。けれども、もうそんな日が来るのを、こっちから便々と待ってはいられなくなりました。そうして終《つい》に、私も決心の臍《ほぞ》を固めて、どのみちどっちに傾いたところで、陰惨この上ない闇黒世界であるに相違ないのですから、私の一身を処置するためには、どうしてもあの二つの変貌と、高代という名の本体を、突き究《きわ》めねばならぬと思いました。それから、辛い夜の数を一つ一つ加えながら、いつ尽きるか涯しないことを知りながらも、あの永い苦悩と懐疑の旅に上っていったのでした」
雷鳴のたびごとに、対岸の峰に注ぐ、夕立の音が高まり、強い突風が樹林のここかしこに起って、大樹を傾け梢を
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