エット図」、95−5])とでも云えば、似つかわしげな形で這《は》い歩いているのだった。だが、そうなると稚市の誕生には、またちょっと、因果|噺《ばなし》めいた臆測がされてきて、あるいは、根もない恐怖に虐《しいた》げられていた、信徒達の酬いではあるまいかとも考えられてくる。が、そうしているうちに、その迷信めいた考えを払うに足《た》るものが、古い文書の中から発見された。それは、くらの夫――すなわち先代の近四郎が、草津|在《ざい》の癩村に祈祷《きとう》のため赴いたという事実である。するとそれからは、たとえそれが、遺伝性であろうと伝染性であろうと、また胎中発病が、あり得ようがあり得まいが、もうそんな病理論などは、物の数ではなくなってしまって、はや騎西家の人達は、自分達の身体に腐爛の臭いを気にするようになってきた。そして明け暮れ[#底本では「明れ暮れ」と誤植]、己れの手足ばかりを眺めながら、惨《いた》ましい絶望の中で生き続けていたのである。
 ところが、こうした中にも、恐怖にはいささかも染まらないばかりでなく、むしろそれを嘲り返している、不思議な一人があった。それが、十四郎の妻の滝人である。彼女は、一種奇蹟的な力強さでもって、あの悪病の兆《きざし》にもめげず、絶えず去勢しようと狙ってくる、自然力とも壮烈に闘っていて、いぜん害われぬ理性の力を保ちつづけていた。それには、何か異常な原因がなくてはならぬであろう。事実滝人には、一つの大きな疑惑があって、それには、彼女が一生を賭《と》してまでもと思い、片時《かたとき》も忘れ去ることのない、ひたむきな偏執が注がれていた。そして、絶えずその神秘の中に分けて入ってゆくような蠢惑《こわく》を感じていて、その一片でも征服するごとに、いつも勝ち誇ったような、気持になるのが常であった。しかし、その疑惑の渦が、しだいと拡がるにつれて、やがては、悪病も孤独も――寂寥も何もかも、この地峡におけるいっさいのものが、妙に不安定な、一つの空気を作り上げてしまうのだった。

 一、二つの変貌と人瘤

 八月十六日――その日は、早朝からこの地峡の上層を、真白な薄雲が一面に覆うているので、空気は少しも微《ゆる》がう[#底本のまま]とはせず、それは肢体に浸み渡らんばかりの蒸し暑さだった。それでも正午頃になると、八ヶ岳の裾の方から雲が割れてきて、弾左谿《だんざだに》の上空にはところどころ碧《あお》空が覗かれたが、まもなく、さうして[#底本のまま]片方に寄り重なった雲には、しだいに薄気味悪い墨色が加わってきた。そして、その一団の密雲は、ちょうど渓谷の対岸辺りを縁にして、除々と西北の方角に動きはじめたのであったが、そのうち、いやにぬくもりを含んだ風が、峰から吹き下りて来たかと思うと、やがて轟々《ごうごう》たる反響が、広い地峡の中を揺ぶりはじめた。しかしその雲も、小法師岳寄りの側になると、よほど薄らいでいて、時折太い雨脚が一つ二つ見えるという程度だったけれども、葉末の中ははや黄昏《たそがれ》ていて、その暗がりのなかで絶えず黄ばんだ光りが瞬《またた》いていた。その頃、騎西家の頭上にある沼の畔で、不安げに、雲の行脚を眺めている一人の女があった。それは、見ようによっては三十近くにも見えるだろうが、だいたいに塊量といった感じがなく、どこからどこまで妙にギスギス棘立っていて、そのくせなんとなく、熱情的な感じがする女だった。そして、薄汚ない篠輪絣《ささのわがすり》の単衣《ひとえ》に、縞目も見えなくなった軽山袴《かるさんばかま》をはいていて、服装だけは、いかにも地臭《エルトゲルフ》そのものであろうが、それに引きかえ顔立ちには、全然それとはそぐわない、透き徹った理智的な、むしろ冷酷ではないかと思われるような峻烈なものがあって、その二つが異様な対照をなしていた。十四郎の妻の滝人《たきと》は、こうして一時間もまえから、沼の水際《みぎわ》を放れなかったのである。
 けれども、その顔が漠然とした、仮面のように見えるのは、なぜであろうか。もちろんそれには、あの耐えられない憂鬱や、多産のせいもあるとは云え、たかが三十を二つ越えたばかりの肉体が、なぜにそう見る影もなく害《そこな》われているのであろうか。顔からも四肢の艶《つや》からも、張りや脂肪の層がすでに薄らぎ消えていて、はや果敢《はか》ない、朽ち葉のような匂いが立ちのぼっているのだった。しかし、眼には眦《まなじり》が鋭く切れて、それには絶えず、同じことのみ眺め考えているからであろうか、瞳のなかが泉のように澄み切っていた。事実、彼女の心のなかには、あのふしだらな単調な生活にも破壊されず、けっして倦《う》むこともなく、絶えず一つの思念を、凝視してゆく活力があった。それが、滝人の蒼ざめた顔のなかで、不断の欲望を燃えさから
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