ろが、十四郎と喜惣とは、時江の悲嘆には頓着なく、事もあろうに、肉の取り前から争《いさか》いを始めた。それは、泥|塗《まみ》れになった片側を、十四郎が喜惣に当てたことで、喜惣はまたむきになって、無傷のほうを自分のものに主張するのだった。そして、熱してきた仔鹿《かよ》の上へ、二人がさかんに唾を吐き飛ばせていると、母のくらは、またドギマギして、二人の気を外らそうとして、別の話題をもちだした。
「そんな聴き苦しい争いをせずと、やはり仔鹿の生眼がええじゃろう。あるんなら喜惣よ、こけえ早う持ってきたらどうじゃな」
「そんなものは、ありゃせんぞ」と白痴特有の、表情のない顔を向けて、喜惣は、新しく訪れた観念のために、前の争《いさか》いを忘れてしまった。そして、仔鹿《かよ》を結わえた鉄棒を、再び廻しはじめながら、
「最初から、ありゃせん。たぶん烏にでもつつかれたんじゃろう」
「いや熊鷹《くまたか》じゃろう。あれは意地むさいでな。だがなあ喜惣、この片身はどうあっても、お前にはやれんぞ。あれは、第一|儂《わし》の穽《あな》なんじゃ」と食欲以外には、生活の目的とて何もない十四郎が、あくまで白痴の弟を抑えつけようとすると、
「なに、鷹が……」と時江は、それまでにない鋭い声を発した。が、その気勢にも似ず、それからぼんやりと仔鹿《かよ》の頸を瞶《みつ》めはじめた。
「欲しくもないものなら、熊鷹か鷲でもいいだろうが、時江、いったいお前は何を考えとるんだな」とその様子を訝《いぶか》しがって、十四郎が問い返すと、時江は皮肉な笑いを泛《うか》べて云った。
「いいえ、なんでもないことなんですの。ただ大兄さんが、仔鹿の傷のない片身を、とろうとおっしゃるので、それはいくら望んだって、もう出来ないことだと云いたいだけですわ。いいえ、どう思ったって、この谿間《たにあい》に来てしまったからには、取れるもんですか」
 それには、刺すような鋭さはあったが、何の意味で、そのように不可解な言葉を吐くのか、まったく煙《けむ》に巻くような不可思議なものがあった。しかし、美しい斑のある片側も、しだいに毛が燃えすれてきて、しばらく経つと、皮の間から熱い肉汁が滴りだし、まったくその裏側と異らないものになってしまった。すると、なお訝《いぶか》しいことには、その後の時江は、別人のように変ってしまって、十四郎がしぶとくその側にのみ、刃を入
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