汚されてはいなかった。しかし、それ以外の鹿子《かのこ》色をした皮膚は、ドス黒くこびりついた、血に塗《まみ》れていて、ことに半面のほうは、逃げようと悶えながら、岩壁に摺りつけたせいか、繊維の中にまで泥が浸み込み、絶えず脂《あぶら》とも、血ともつかぬようなものが、滴《したた》り落ちていた。それであるから、仔鹿《かよ》の形は、ちょうど置燈籠を、半分から截《た》ち割ったようであって、いくぶんそれが、陰惨な色調を救っているように思えた。
十四郎は、熱した脂肪の跳《は》ねを、右眼にうけたと見えて、額から斜《はす》かいに繃帯していたが、そのかたわらに仔鹿を挾んで、くら、喜惣、滝人の三人が、寝転んでいる時江と向き合っていた。するとにわかに松|薪《まき》が燃え上がり、室《へや》中が銅色に染まって明るくなった。そして、暗闇があった所から、染めたくらの髪や舌舐《したな》めずりしている喜惣の真赤な口などが、異様にちらつきだしたかと思うと、仔鹿の胴体も、その熱のためにむくむく膨れてきて、たまらない臭気が食道から吹きはじめると、腿《もも》の二山の間からも、透き通った、なんとも知れぬ臓腑の先が垂れ下がってきた。それを見ると、十四郎は鉄弓を穏やかに廻しながら、
「おい、肝《きも》を喰うとよいぞ。もう蒸れたろうからな。あの病いにはそれが一番ええそうなんじゃ」と時江に云ったが、彼女はチラリと相手の顔を見たのみで、答えようともしなかった。それは、いかにも無意識のようであって、彼女は、自分の夢に浸りきっていて、ものを云うのも覚《おぼ》つかなげな様子だった。ところが、そうしてしばらく、毛の焦げるような匂いが漂い、チリチリ捲き縮まってゆく、音のみが静寂を支配していたが、そのうち、時江はいきなり身体をもじらせて、甲高い狂ったような叫び声をたてた。
「ああ、それじゃ、稚市《ちごいち》の身体を喰べさせようって云うの。まるで、この仔鹿《かよ》の形は、あの子の身体にそっくりじゃないの。ほんとうに、じりじり腐ってゆくよりも、いっそひと思いに、こんなふうに焼かれてしまったほうがましだわ。もう、そうなったら、烏だって喰べやしないでしょうからね。山猫だって屍虫《しでむし》だって、てんで寄りつかないにきまってますわ。大兄さん、いったい肝ぐらい喰べたって何になるのさ」
時江はおりおりこのように、何かの形にあれを連想しては、心の
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