にはところどころ碧《あお》空が覗かれたが、まもなく、さうして[#底本のまま]片方に寄り重なった雲には、しだいに薄気味悪い墨色が加わってきた。そして、その一団の密雲は、ちょうど渓谷の対岸辺りを縁にして、除々と西北の方角に動きはじめたのであったが、そのうち、いやにぬくもりを含んだ風が、峰から吹き下りて来たかと思うと、やがて轟々《ごうごう》たる反響が、広い地峡の中を揺ぶりはじめた。しかしその雲も、小法師岳寄りの側になると、よほど薄らいでいて、時折太い雨脚が一つ二つ見えるという程度だったけれども、葉末の中ははや黄昏《たそがれ》ていて、その暗がりのなかで絶えず黄ばんだ光りが瞬《またた》いていた。その頃、騎西家の頭上にある沼の畔で、不安げに、雲の行脚を眺めている一人の女があった。それは、見ようによっては三十近くにも見えるだろうが、だいたいに塊量といった感じがなく、どこからどこまで妙にギスギス棘立っていて、そのくせなんとなく、熱情的な感じがする女だった。そして、薄汚ない篠輪絣《ささのわがすり》の単衣《ひとえ》に、縞目も見えなくなった軽山袴《かるさんばかま》をはいていて、服装だけは、いかにも地臭《エルトゲルフ》そのものであろうが、それに引きかえ顔立ちには、全然それとはそぐわない、透き徹った理智的な、むしろ冷酷ではないかと思われるような峻烈なものがあって、その二つが異様な対照をなしていた。十四郎の妻の滝人《たきと》は、こうして一時間もまえから、沼の水際《みぎわ》を放れなかったのである。
けれども、その顔が漠然とした、仮面のように見えるのは、なぜであろうか。もちろんそれには、あの耐えられない憂鬱や、多産のせいもあるとは云え、たかが三十を二つ越えたばかりの肉体が、なぜにそう見る影もなく害《そこな》われているのであろうか。顔からも四肢の艶《つや》からも、張りや脂肪の層がすでに薄らぎ消えていて、はや果敢《はか》ない、朽ち葉のような匂いが立ちのぼっているのだった。しかし、眼には眦《まなじり》が鋭く切れて、それには絶えず、同じことのみ眺め考えているからであろうか、瞳のなかが泉のように澄み切っていた。事実、彼女の心のなかには、あのふしだらな単調な生活にも破壊されず、けっして倦《う》むこともなく、絶えず一つの思念を、凝視してゆく活力があった。それが、滝人の蒼ざめた顔のなかで、不断の欲望を燃えさから
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