「ザチ、ああザチ」
 彼は狂気のようにさけんだ。
 大塩沙漠《ダシュト・イ・カヴィル》の覗き穴から地下へ帰った、女王ザチが美袍《ガウン》を着、いまは死体となって油の流れにまかせている。夢ではないか。これは一体なんということだろう。暫く茫然としてなすを知らなかった折竹が、やがて、裳裾の端をつかんでぐいと引きあげた。その、懐中からでたのが、身分証明のようなもの。
 ――前マリンスキー歌劇場の女優、ナデジーダ・クルムスカヤである。当「国家保安部」の一員たるを証明す。
 ああ、やはり――と、いま折竹はすべてを知ったのだ。晦冥国《キンメリア》も、地底の住民もこの「大盲谷」にはない。女王ザチも、やはり最初察したように、ソ連の女だった。彼女は対印新攻撃路を求めようという祖国の意志により、まず折竹を探検に誘おうとした。その、クライマックスが大塩沙漠、たぶん、夜、飛行機で驕魔台《ヤツデ・クベーダ》へ降り、折竹らをみるや、覗き穴を下ったのだろう。それは、晦冥国を思わせる巧妙な手だったが……しかし、それでザチは死ななければならない。
 鉄の意志――。これも犠牲を自覚した、貴い一人だ。と、彼は虔《つつま》しげに礼をした。
 大塩沙漠から大地軸孔《カラ・ジルナガン》まで、油層の流れにのって此処まで来たザチ。ムスカットの宮苑でした別れの意味をいおうとして……いま折竹に抱かれている唇は綻《ほころ》び、この運命的な再会を悦ぶかのように、ザチの目はうっとりと開かれている。
 しかし、この油層下の道へは、やがて故国の手が……。折竹は凱歌《がいか》をあげた。



底本:「人外魔境」角川ホラー文庫、角川書店
   1995(平成7)年1月10日初版発行
底本の親本:「人外魔境」角川文庫、角川書店
   1978(昭和53)年6月10日発行
初出:「新青年」1940(昭和15)年8月号
※底本では「地軸二万哩」の題名に「カラ・ジルナガン」のルビが付いています。
※校正には「人外魔境」桃源社、1969(昭和44)年1月25日2刷を参照しました。
入力:笠原正純
校正:鈴木厚司
2003年4月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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