氷河をどうして登るかという点で、僕はハタと詰ったんだ。普通の氷河なら、ザッと十マイルばかりを六十年もかかる。ところが、温霧谷の先生ときたら、化物以上だからね。猛速、強震動を発し、登行者を苦しめる。突然、数丈もある氷塔が頭上に落ちてくるだろう。また、なにもない足下に千仭《せんじん》の氷罅《クレヴァス》が空くだろう。なんていうのがザラだろうという訳も、すべてあの氷河の猛速の禍いだ。それに、氷擦のはげしさで、濃稠《のうちょう》な蒸気が湧く。それが原因となる氷河疲労《グレーシャル・ファチーグ》に、マア僕らは二時間とは堪えられまい」
「驚いた。あなたにも似ない、大変な弱音ですね」
と片隅のほうで嗤《わら》うような声がすると、
「そうとも、化物氷河と闘えるもんじゃない」
と、折竹が即座にやり返す。そしてその、温霧谷《キャム》の速流氷河を十五マイルばかり登ったあたりに、大地軸孔がおそろしい口をひらいている。
作者はいま、便宜上「大地軸孔」などといっているが、その“Kara Jilnagang《カラ・ジルナガン》”というのは中央アジア一帯の通称で、「黒い骨」というのが正確な意味になる。で今、もしもその辺りを絶好の月夜にながめたとしたら……。雪嶺銀渓、藍の影絵をつらねているワカン隘路《パス》のかなた、銀蛇とうねくる温霧谷氷河の一部が、ときどき翳《かげ》るのはおそろしい雪崩《なだれ》か。いや、その中腹にくっきりと黒く、一本の肋骨のようなものが見えるだろう。それが地獄の劫火《ごうか》ほの見える底なし谷といわれている、黒い骨の「大地軸孔《カラ・ジルナガン》」。
そこは、たぶんめずらしい“Niche rift《ニーチ・リフト》”ではないのか。つまり、壺形をした渓という意味で、上部は、子安貝に似た裂罅《クレヴァス》状の開口。しかし、内部は広くじつに深く、さながら地軸までもという暗黒の谷がこの「大地軸孔」の想像図になっている。ではここが、なぜ世界の視聴をいっせいに集めているのか。というのは、怪光があるからである。
ときどき、地底の住民の不可解な合図のように、火箭《かせん》のような光がスイスイと立ちのぼってくる。時には、極光《オーロラ》のように開口いっぱいに噴出し、はじめは淡紅《ピンク》、やがて青紫色に終るこの世ならぬ諧調が、キラキラ氷河をわたる大絶景を呈するのだ。しかし、このパミールに
前へ
次へ
全23ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング