これだけであろう」
「ふむ、いかさますみ申したようであるが」
 裸足《はだし》の、二人の式部官が次第書とつき合せてみると、もうお客はこれで終っている。きょうの御儀に日本綿布の外衣《バーナス》をそろえた、儀仗兵も休ませなくてはならない。さあ、腹も減ったし、羊も焼けている。胡椒飯《ピラフ》を腹さんざん詰めこもうではないか――となった時。
 とつぜん、昇降階のしたでザザザザという太鼓の音。お客だ、と一同は慌てふためいて列をそろえた。とそこへ、たくみにガウンを捌いてくる※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]《ろう》たけた一人の婦人。みれば、頭上には王冠を戴いている。
「失礼でございますが」
 と、式部官の一人が恭々《うやうや》しく訊ねたのである。
「次第書にございませんので、お言葉を願います。いずれの国の、どなた様でいられましょう」
「キンメリアの女王」
「へっ」
「このオーマンは、なんという無礼な国である」
 とその婦人が凛然《りんぜん》と言い出した。
「わたくしは、前もって儀式書を頂いている。それには、使節の随員は宮廷よりの馬車に分乗し、使節の馬車に前行すべし――とありますが、随員のはおろか、わたくしのも参りませぬ。当国は格式を重んじ典礼を尊ぶ点に於いて、回教国一と聴いておりますが」
「恐れいります」
 と、式部官が首をさげた時その婦人の姿は、昇降階に続く「騎士の間」に消えていたのである。その場には、侍従長やら将軍やらがいたが、凛とあたりを払うその婦人の威厳には、誰も止めるものがなかったのだ。
 キンメリア――それは地図上にない国である。

   生きている氷河

 折竹は、舞踏にも加わらず宮苑のなかを歩いていた。スミルナの無花果《いちじく》、ボスラーの棗椰子《なつめやし》、エスコールの葡萄――。近東の名菓がたわわに実っているところは、魔宮か、魅惑の園のよう。そこへ、日時計のついた噴泉が虹をあげ、風は樹々をうごかし、花弁は楽の音にゆすられる。彼は酒気をさまそうと、ぽつねんと亭《ちん》にいたのだ。
(セルカークの奴、この辺じゃなかなかの羽振りじゃないか。マア情報省の機関区長どころだろうが……、どうして領事くらいは敵わんような勢力がある)
 そこへ、植込の陰からぷうんと女の匂いがした。棕櫚の花粉のついた裳裾がみえたとき、彼の横手からすうっと寄り添ってき
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