する。きっと、ザチはソ連の女だろう、と、折竹はそういうように考えていた。しかし、どこにもザチらしい婦人はいない。ただ、テムズを越えてみえるバタッシー公園の新芽の色が、四月はじめの狭霧にけむり、縹渺《ひょうびょう》として美しい。
 翌朝は、ロンドンの郊外クロイドンの飛行場。アームストロング・ウィットウァース機の車輪一度地をはなれれば、鵬翼欧亜の空を駆り日本へと近付いてゆく。が、まず彼は事務所にいって、同乗の旅客表《ブラッキング・シート》をしらべたのである。しかし、ザチの名はなかったのだ。
「たいていは、アラビアオーマン国の王子ご新婚式に出むかれる、新聞社の方々や外交関係でございます」と、折竹に旅客掛りが説明をする。
「ご婦人※[#疑問符感嘆符、1−8−77] それはお一人ですが、ハッキング卿夫人で。いいえ、外国の方は貴方さまばかりで……」
 やがて、機はふんわりと空中に浮び、朝の湿気のもとに広茫とひろがっているクロイドンは、はや見えずになってしまった。左様なら、また、信念を充すものがくるまで、探検よさらば。と、翌夜捲きこまれる奇怪な運命があるのも知らず、彼は胸をくもらせ、無限の感慨にひたっていたのだ。やがてパリ、イタリアのブリンディッシ、アテネ、アレキサンドリア。
 翌日は、バグダット、バスラを過ぎアラビヤ半島の突角にある“Sharjah《シャルジャー》”へ着いたのが深更の二時。荒い城壁にかこまれた、沙漠中の空港《エーヤ・ポート》。すると、機体を下りたった彼のそばへ、歩み寄ってきた男がいる。まず、その男は慇懃《いんぎん》な礼をして、
「ポルトガルの御使節、エスピノーザ閣下にいらせられましょう」
「へえっ」
 と彼はびっくりして、叫んだ。
「日本人だ。いくら、日本と葡萄牙人《ポルチュゲー》が似ているからって、間違うにもほどがある。まして、俺は閣下じゃない」
「ご冗談を」
 とその男は引きさがる気配がない。
「オーマンの、華の御儀へご参加になるエスピノーザ閣下であることは、手前よく存じております。また、お気さくの方で下々のことまで、よくおわきまえでいらっしゃる事も……」
「ハッハッハッハ、上にも下にも、下情しかしらん男だよ」
 となんだか折竹も面白くなってきたところへ、とつぜん彼の咽喉がぐびっと鳴り、顔の表情が凍てついたようになってしまった。銃口が、彼の下腹部にぴたりと付
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