のぶサンの態度が、それまでのネチネチさを振り落してしまったようなことだ。
「あの女は、寒気に充分な抵抗力がある。なにしろ、馴鹿《となかい》がいるあたりの北カナダへいってさえ、肉襦袢《タイツ》姿で平気でいれる奴だ。しかし、どうも近ごろ様子が変っている」
 さっきもおのぶサンは、なにやら意味ありげなことを呟いた。折竹には分らぬ異常なことを知っているということは、その一事でも察せられなければならぬ。しかし瞬後には、彼はもうおのぶサンのことを考えていない。
「いずれ、フラム号の連中も俺を追ってくるだろう。橇犬の嗅覚は、磁石よりも鋭い。奴らは、前に往った犬の糞尿や凍傷の血の滴りを、なん月後でもちゃんと嗅ぎ分けるから……」
 しかし、この鉄の男は顔色も変えていない。微妙な、ほのめきを投げる深夜の太陽のしたで、とおい、雪崩《なだれ》の音を聴きながら、じっと考えているのだ。周囲の、山巓《さんてん》も氷河もまったく死の世界。人を狂わせる極地特有の孤独のなかで、彼の頭はますます冴えるばかり。
「人間は……いや、あの人種は、ことによったら冬眠ができるのかも知れない。そのほかに『|冥路の国《セル・ミク・シュア》』の謎を解く方法はないだろう。エスキモーが、『冥路の国』へ招かれるときは、こんな状態になる。脈が聴きとれず消えなんとし、体温は死温程度にさがってくる──それは、取りも直さず冬眠とおなじ状態だ。
 ことによったら、異常な寒気に逢った場合、そうなるのではないか。そして、幻覚を見、遮二無二身をおこし、橇をかって氷の涯へと飛んでゆく。もちろん、そうした場合だから、なんの苦痛も感じない。運よく氷罅《クレヴァス》にも落ちずに行き着けた奴らが、『冥路の国』の中で一部落を作っているのではないか。冬中、体中の脂肪に養われて、氷のしたで眠る。春になると醒めて、麝香牛《マクス・オクゼン》を狩る。──そういう、冬眠の生理がエスキモーにあるのではないか」
 彼は、その考えにひじょうな自信をもっていた。小さな極光が、ぶよぶようごく真赤な虹をあらわし、その核心からでる金色の輻射線《ふくしゃせん》が、氷罅《クレヴァス》のうえをキラキラっと流れてゆく。翌朝も、隊はいつもながらのように、氷を踏み踏み黙々と発っていったのである。やがて、十日ばかり経つと連嶺が切れ、一行は盆地のような氷原のなかに出た。と、朝餌をやろうとして
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