できたのは……まだ新しく、白人侵入当初だったろう。その犠牲者が、所々に完全な屍蝋《しろう》となっている。それに反して、グァラニー土人のは一つも見当らない。つまり、白人における化石素《ペトリ》説が、ここに完全に立証されたわけだ。
 ここは、四季を通じて一定の温度を保ち、寒からず暑からず至極《しごく》凌《しの》ぎよい。食物は、盲《めし》いた蝦《えび》、藻草の類。底には、ダイヤモンドがあるが無用の大長物。さて、本日出口をさぐりさぐりやっと地上へ出たが、やはりパ、ア両軍の対峙《たいじ》は続いている。ダイヤをやって、ロイスへの伝達を頼んだが、あの男はやってくるだろうか。

 ああ三上と、しばらくロイスは咽《むせ》び泣いていた。おそらくこれが彼の絶筆であろうか。なお、地図には祈祷台《トラスコロ》とか、鉄の門《プエルタ・デ・イエロ》[#ルビは「鉄の門」にかかる]とか目印が記されてあるが、おそらく、当時と今とは道がちがっているだろう。しかしこれで、水棲人の謎が解けたのだ。
 ジメネス教授がみた女の姿は、たぶんエミリア・ヴィダリ嬢だろうし、また沼地から現われた化石|屍蝋《しろう》をみて、水棲人|覗《のぞ》くと早合点したのだろう。そこからは、道あるいは広くあるいは狭まり、くねくね曲りくねりながら、下降してゆくようである。すると、眼界がとつぜん開け、かすかに光苔《ひかりごけ》のかがやく、窪みのようなところへ出た。
 四辺《あたり》は、かつて地上の大森林だった亭々たる幹の列。あるいは、岩石ともみえる瘤木《りゅうぼく》のようなものの突出。ちょっと、この奇観に呆然《ぼうぜん》たる所へ、ロイスのけたたましい叫び声……。
 「アッ、あすこに誰かいますわ」
 すると、はるか向うの光苔の微光のなかに、一人の、葉か衣か分らぬボロボロのものを身につけた、瘠《や》せこけた男が横たわっている。声を聴いたか……手をあげたが、衰弱のため動けない。三上と、ロイスはぽろりと双眼鏡を取り落した。
 しかし、ここに何とも意地の悪いことには、ちょうど此処《ここ》までが綱の限度であった。ずぶずぶもぐる泥の窪みをゆくことは、僥倖《ぎょうこう》を期待せぬかぎり、到底できることではない。みすみす眼前にみてとロイスの切なさ。そこへ、カムポスが敢然と言ったのである。
 「俺がいってみる。このままで、帰れるもんじゃないよ」
 そうして彼は、感謝の涙にあふれたロイスの目に送られながら、綱をといて窪みに降りていったのだ。無法、神に通ず――とは、カムポスの憲法《モットー》。今度も、三上を抱えてようやく戻ってきたのだが……、差しあげて、折竹に渡したとき足場を取りちがえ、ずぶっと深みへ落ちこんでしまった。とたんに、その震動で亀裂がおこり、泥水が流れ入ってくる。
 「あッ、カムポス」と、思ったときは胸までも漬《つか》っている。カムポスは、一度は血の気のひいたまっ蒼な顔になったが、やがて、観念したらしくにこっと折竹に笑《え》み、
 「駄目だ。俺は、もう駄目だから、君らは帰ってくれ。ホラ、みろ、上の土がだんだん崩れてくるじゃないか」
 「カムポスさん、私のことから、なんてすまないことに」
 とだんだん浸ってゆくカムポスに絶望を覚えるほど、いっそうロイスは切なく、絶え入るように泣きはじめた。
 「じゃ、カムポス」と、折竹がおろおろ声で言うと、彼は、
 「一番違い――動物富籖《ビツショ》のあれがやはりこれだったよ」
 それからロイスに向い、「御機嫌よう《ボーア》[#ルビは「御機嫌よう」にかかる]、気を付けてね《ヴイアジェン》[#ルビは「気を付けてね」にかかる]」と言った。
 それから、身を切られる思いで帰路についていた二人の耳へ、カムポスが高らかにいう声が聴えてきた。「シラノ・ド・ベルジュラック」の一節を朗誦《ろうしょう》している。シラノが、末期にうち明けなかった恋を告白しているところ……。
 「面白くもない私の生涯に、過ぎゆく女性の衣摺《きぬず》れの音を聴いたのも、まったくあなたのお蔭」
 ああと、ロイスが何事かをさとり、抱いていた三上の感触がスウッと飛び去ったような気がした。カムポスが私に恋し、私のために死んでくれた……。朗誦の声は、なおも続く。
 「哲学者たり、理学者たり、詩人、剣客、音楽家、また、天界の旅行者たり。恋愛の殉教者――カムポス・モンテシノスここに眠る」
 そして、声が杜絶《とだ》えた。



底本:「人外魔境」角川文庫、角川書店
   1978(昭和53)年6月10日発行
入力:笠原正純
校正:大西敦子
2000年9月15日公開
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