v
 折竹は、俺もかと思うとぞっと気味わるくなった。じぶんだけは、男のなかでも超然として、なんの白痴女と些細《ささい》も思わぬと考えていたのに、やはり、ダネックがみるじぶんの目もちがっている?![#「?!」は横一列] それが、「天母生上の雲湖」の不思議な力だろうか。いまに、このバダジャッカで愚図付いているうちには、全員が気違いになってしまうのではないか。さすが、援蒋ルートをふさぐ大使命をもつだけに、まだ折竹は正常さをうしなっていない。
 そこで、二人を急《せ》きたてて攻撃準備をいそぎ、いよいよその三日後魔境へ向うことになった。海抜一万六千フィートのここはなんの湿気もない。ただ烈風と寒冷が髭《ひげ》を硬ばらせ、風は隊列を薙《な》いで粉のような雪を浴びせる。やがて、櫛《くし》のような尖峰《せんぽう》を七、八つ越えたのち、いよいよ「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」の外輪四山の一つ、紅蓮峰の大氷河の開口《くち》へでた。
 そこは、天はひくく垂れ雲が地を這《は》い、なんと幽冥《ゆうめい》界の荒涼たるよと叫んだバイロンの地獄さながらの景である。氷河は、いく筋も氷の滝をたらし、その末端は鏡のような断崖をなしている。まったく、そこで得る視野は二十メートルくらいにすぎない。暗い積雲と霧のむこうに、不侵地、「天母生上の雲湖」が、傲然《ごうぜん》と倨坐《きょざ》している。
「ここまでだ。前の三回とも、ここからは往けなかったのだ」ダネックが、感に耐えたような面持で、大氷河の開口を指さした。
「ホラ、あれがバダジャッカでも絶えず聴えていた音だよ。千の雪崩の音、魔神の咆哮《ほうこう》と――僕が報告に書いたがね。それは、この開口をのぼった間近で合している二つの氷河の、右側のを吹きおろす大烈風だ。だから、たとえ僕らがこの開口をのぼっても、すぐに地獄の五丁目辺になってしまうのだ。ケルミッシュ君、ここが、人間力の限度、人文の極限だ。どうだ、ゆくかね」
「ゆこう」ケルミッシュは一瞬の躊躇《ちゅうちょ》もなく答えた。「往けるところまで……それは君にお願いすることだがね。僕は大烈風を衝《つ》いてもなお先きへ行く」
 すると、ケティが無言のまま頷《うなず》いた。で、とにかく、人間がゆける最後まで往こうと、人夫をそこに残し開口をのぼりはじめた。壁や裂け目から、氷の
前へ 次へ
全27ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング