U8−14]《がらんちょう》を放すのを延ばそう。
 マヌエラ、この一日延ばしたことがたいへんな禍《わざわい》となった。といって、いま私が死のうとしているのではない。私が、いままで心を向けていたあらゆるものの価値が、まるで、どうしたことか感ぜられなくなってしまったのだ。あなたのことも、カークのこともこの悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]征服も、いっさい過去のものが塵《ちり》のように些細《ささい》にみえてきた。
 どうしたことだろう。じぶんでそうであってはならないと心を励ましても、その力がまるで咒縛《じゅばく》されているように、すうっと抜けてしまうのだ。きっとマヌエラ、これは魂を悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]に奪われたのだろう。人間という動物であるものが森の墓場へきて、恋人をおもったり娑婆《しゃば》を恋しがったりすることが、そもそも悪魔の尿溜の神さまにはお気に召さないのかもしれない。戒律《タブー》だ。それを破った私は当然罰せられる。それで今日から、「知られざる森の墓場《セブルクルム・ルクジ》[#ルビは「知られざる森の墓場」にかかる]」の掟《おきて》に従うことになった。いや、おそろしい力に従わせられたのだ。
 今朝、ゴリラがちょうど二週間目に死んだ。
 私は、鹹沢《しおざわ》のへりにいて洞窟にいなかったが、そこへ妙な、聴きなれない音が絶《き》れ絶《ぎ》れにひびいてくる。それが、洞窟のほうなのでさっそく戻ると、ゴリラがまさに死のうとする手でじぶんの胸をうち、かたわらの石をうっては異様な拍子を奏でているのだ。私もゴリラに音楽があるという噂は聴いていたけれど、その音は、「いま遠い、遠いところへゆく」と叫んでいるようなもの悲しげなものだった。私は、とたんに哀憐の情にたまらなくなってきて、ゴリラの最期を見護《みと》ろうと膝に抱えたとき、意外な、軽さにすうっと抱きあげてしまった。
 まったく、力のあまりというのが、その時のことだろう。ながい、絶食と塩分の枯痩《こそう》とで、そのゴリラは骨と皮になっていた。それにしても、この私とてもおなじように痩《や》せ、まして、壊血病になやみながらこの老巨獣を、抱きあげられたことはなんといっても不思議であった。私は、ここにいる間に森の人になったのではないか。痩せても二百ポンド以上のものを軽々
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