rイクに帰れる。マヌエラは、感きわまって子供のように泣きはじめた。
しかしそのとき、その衝撃《ショック》が因でまたラターがおこった。今度は、カークのまえなので隠すこともできず、座間はその晩ねむれるどころではなかった。
(可哀そうな、かなしいマヌエラ。ここで、よしんば助かるにしろ、先々はどうなろう。治るまい、おそらく真の狂人《きちがい》に移ってゆくだろう)
暗中に、目を据えて焚火《たきび》を見つめながら、座間は痩《や》せ細るような思いだった。いまに、醜猥《しゅうわい》な言葉をわめき散らすようになれば、美しいマヌエラは死に、ただ見るものの好色をそそるだけになる。よしんば助かっても空骸がのこる。恥と醜汚のなかでマヌエラの肉体が生きるだけ……。
するとその時、座間の目のまえへ幻となって、一匹の野牛の顔があらわれた。
それは、コンデロガを発って間もなく、曠原《こうげん》の灌木帯で野牛を狩った時のこと、砂煙をたてて、牝の指揮者のもとに整然と行動する、その一群へ散弾をぶちこんだ。すると、腹をうたれたらしい一匹がもがいていると、他が危険をおかしてそれに躍《おど》りかかり、滅茶滅茶《めちゃめちゃ》に角で突いて殺してしまったのである。どうせ、駄目なものは苦しませぬようにと、野獣にも友愛の殺戮《さつりく》がある。医師にも、陰微な愛として安死術がある。
焚火のむこうで鬣狗《ハイエナ》が嗤《わら》うようにうずくまっている。とたんに、怪しい幽霊がじぶんをみているような気がした。やがて、夢も幻もないまっ暗な眠りがはじまったとき、座間は胸にかたい決意を秘めたのであった。
翌朝、もう数時間後にはここを去ろうというとき、マヌエラは絶壁の縁にたっていた。悪魔の尿溜《ムラムブウェジ》[#ルビは「悪魔の尿溜」にかかる]の大景観を紙にとどめようとして、彼女がしきりとスケッチをとっている。そこへ、座間が背後からしのび寄ってきた。陽炎《かげろう》が、まるで焔《ほのお》のようにマヌエラを包んでいる。頭が熱し、瞼《まぶた》が焼けて、じぶんは地獄に墜《お》ちてもマヌエラを天に送ろうと、座間は目を瞑《つぶ》り絶叫に似た叫びをあげていた。
しかも、マヌエラをみるとまた決意が鈍ってくる。大きな愛だと心をはげまし近寄ってゆくうちに知らず知らず、座間は砂川《サンド・リヴァ》へはいってしまった。そこには殺すものが死に
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