潜航艇「鷹の城」
小栗虫太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)夜暁《よあ》け

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)潜航艇「|鷹の城《ハビヒツブルク》」

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》の

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(例)〔Gift−mo:rder〕《ギフト・メールダー》
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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    第一編 海底の惨劇


      一、海―武人の墓

 それは、夜暁《よあけ》までに幾ばくもない頃であった。
 すでに雨は止み、波頭も低まって、その轟きがいくぶん衰《おとろ》えたように思われたが、闇はその頃になるとひとしおの濃さを加えた。
 その深さは、ものの形体《かたち》運動《うごき》のいっさいを呑《の》み尽してしまって、その頃には、海から押し上がってくる、平原のような霧があるのだけれど、その流れにも、さだかな色とてなく、なにものをも映そうとはしない。
 ただ、その中をかい間ぐって、ときおり妙に冷《ひい》やりとした――まるで咽喉《のど》でも痛めそうな、苦ほろい鹹気《しおけ》が飛んでくるので、その方向から前方を海と感ずるのみであった。
 しかし、足もとの草原は、闇の中でほう茫《ぼう》と押し拡がっていて、やがては灰色をした砂丘となり、またその砂丘が、岩草の蔓《はびこ》っているあたりから険しく海に切り折れていて、その岩の壁は、烈しく照りつけられるせいか褐色に錆《さ》びついているのだ。
 しかし、そういった細景が、肉の眼にてんで映ろう道理はないのであるが、またそうかといって闇を見つめていても、妙に夜という漆闇《しつあん》の感じがないのである。というのは、そのおり天頂を振りあおぐと、色も形もない、透きとおった片雲《ひらぐも》のようなものが見出されるであろう。
 その光りは、夢の世界に漲っているそれに似て、色の褪せた、なんともいえぬ不思議な色合いであるが、はじめは天頂に落ちて、星を二つ三つ消したかと思うと、その輪形《わがた》は、いつか澄んだ碧《あお》みを加えて、やがては黄道を覆い、極から極に、天球を涯《はて》しなく拡がってゆくのだ。
 いまや、岬の一角ははっきりと闇から引き裂かれ、光りが徐々に変りつつあった。
 それまでは、重力のみをしんしんと感じ、境界も水平線もなかったこの世界にも、ようやく停滞が破られて、あの蒼白い薄明が、霧の流れを異様に息づかせはじめた。すると、黎明《れいめい》はその頃から脈づきはじめて、地景の上を、もやもやした微風がゆるぎだすと、窪地の霧は高く上《のぼ》り、さまざまな形に棚引きはじめるのだ。そして、その揺動の間に、チラホラ見え隠れして、底深い、淵のような黝《くろ》ずみが現われ出るのである。
 その、巨大な竜骨のような影が、豆州の南端――印南岬《いなみさき》なのであった。
 ところがそのおり、岬のはずれ――砂丘がまさに尽きなんとしているあたりで、ほの暗い影絵のようなものが蠢《うごめ》いていた。
 それは、明けきらない薄明のなかで、妖《あや》しい夢幻のように見えた。ときとして、幾筋かの霧に隔てられると、その塊がこまごま切りさかれて、その片々が、またいちいち妖怪めいた異形《いぎょう》なものに見えたりして、まこと、幻のなかの幻とでもいいたげな奇怪さであった。
 けれども、その不思議な単色画《モノクローム》は疑いもない人影であって、数えたところ十人余りの一団だった。
 そして、いまや潜航艇「|鷹の城《ハビヒツブルク》」の艇長――故テオバルト・フォン・エッセン男の追憶が、その夫人ウルリーケの口から述べられようとしている。
 しかし、その情景からは、なんともいえぬ悲哀な感銘が眼を打ってくるのだった。海も丘も、極北の夏の夜を思わせるような、どんよりした蒼鉛一味に染め出されていて、その一団のみが黒くくっきりと浮び上がり、いずれも引き緊った、悲痛な顔をして押し黙っていた。
 そのおり、海は湧き立ち泡立って、その人たちにあらんかぎりの威嚇《いかく》を浴《あび》せた。荒《し》けあとの高い蜒《うね》りが、岬の鼻に打衝《ぶつ》かると、そこの稜角で真っ二つに截《た》ち切られ、ヒュッと喚声をあげる。そして、高い潮煙が障壁から躍り上がって、人も巌も、その真白な飛沫《しぶき》をかぶるのだった。
 風も六月の末とはいえ、払暁の湿った冷たさは、実際の寒気よりも烈しく身を刺した。しかも、岬の鼻に来てはすでに微風ではなく、髪も着衣《きもの》も、なにか陸地の方に引く力でもあるかのよう、バタバタ帆のようにたなびいているのだ。
 人たちは、いずれも両脚を張ってはいるが、ともすると泡立つ海、波濤の轟き、風の喊声《かんせい》に気怯《きお》じがしてきて、いつかはこの蒼暗たる海景画が、生気を啜《すす》りとってしまうのではないかと思われた。
 しかし、その一団は、はっきりと二つの異様な色彩によって区分されていた。
 と云うのは、まことに物奇《ものめずら》しい対象であるが、夫人と娘の朝枝以外の者は、七人の墺太利人《オーストリヤじん》と四人の盲人だったからである。
 そのうち七人の墺太利人は、いずれも四十を越えた人たちばかりで、なかには、指先の美しい音楽家らしいのもいた。また、髭《ひげ》の雄大な退職官吏風の者もいて、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のあたりに、白い房を残した老人が二つ折れになっているかと思えば、また、逞《たくま》しい骨格を張った傷病兵らしいのが、全身を曲った片肢で支えているのもあって、服装の点も区々まちまちであった。
 しかし、誰しもの額や顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》には、痛ましい憔悴の跡が粘着《ねば》りついていて、着衣にも労苦の皺《しわ》がたたまれ、風がその一団を吹き過ぎると、唇に追放者《エミグレ》らしい悲痛なはためきが残るのだった。
 また、盲人の一群は、七人の向う側に立ち並んでいて、そのぎごちない身体つきは、神秘と荒廃の群像のように見えた。
 もはや眼以外の部分も、生理的に光をうけつけなくなったものか、弱った盲目蛆《めくらうじ》のように肩と肩を擦《す》り合わせ、艶《つや》の褪《あ》せた白い手を互いに重ねて、絶えず力のない咳をしつづけていた。
 しかし、この奇異《ふしぎ》な一団を見れば、誰しも、一場の陰惨な劇《ドラマ》を、頭の中でまとめあげるのであろう。
 あの黒眼鏡を一つ一つに外していったなら、あるいはその中には、天地間の孤独をあきらめきった、白い凝乳のような眼があるかもしれないが、おそらくは、眼底が窺《うかが》えるほどに膿潰《のうかい》し去ったものか、もしくは蝦蟇《ひきがえる》のような、底に一片の執念を潜めたものもあるのではないかと思われた。
 が、いずれにもせよ、盲人の一団からは、故《ゆえ》しらぬ好奇心が唆《そそ》られてくる。そしていまにも、その悲愁な謎を解くものが訪れるのではないかと考えられた。
 その四人は朝枝を加えて、やや金字塔《ピラミッド》に近い形を作っていた。
 と云うのは、中央にいる諾威《ノルウェー》人の前砲手、ヨハン・アルムフェルト・ヴィデだけがずば抜けて高く、それから左右に、以前は一等運転士だった石割《いしわり》苗太郎《なえたろう》と朝枝、そして両端が、現在はウルリーケの夫――さきには室戸丸《むろとまる》の船長だった八住《やずみ》衡吉《こうきち》に、以前は事務長の犬射《いぬい》復六《またろく》となっているからだった。
 そのヴィデは、はや四十を越えた男であるが、丈は六尺余りもあって、がっしりとした骨格を張り、顔も秀でた眼鼻立ちをしていた。亜麻色の髪は柔らかに渦巻いて、鼻は鷹の嘴《くちばし》のように美しいが、絶えず顔を伏目に横へ捻じ向けていた。その沈鬱な態度は、盲人としての理性というよりも、むしろ底知れない、こころもち暗さをおびた品位であろう。
 ところが、ヴィデの頸《くび》から上には、生理的に消しがたい醜さが泛《うか》んでいた。頬には、刀傷や、異様な赤い筋などで、皺が無数にたたまれているばかりでなく、兎唇《みつくち》、瘰癧《るいれき》、その他いろいろ下等な潰瘍《かいよう》の跡が、頸《くび》から上をめまぐるしく埋めているのだった。
 それらは、疾病《しっぺい》放縦などの覆い尽せない痕跡なのであろうが、一方彼が常に、砲手として船に乗るまでは数学者だった――などというところをみると、そのかずかずの醜さは、とうてい彼の品位が受け入れるものとは思われなかった。
 むしろ、その奇異《ふしぎ》な対象から判断して、事実はその下に、美しい人知れない創《きず》があって、それを覆うている瘤《こぶ》というのが、あの忌わしい痕のように考えられもするので、もしそうだとすると、ヴィデには二つの影があらねばならなくなるのだった。
 それから、犬射復六は小肥りに肥った小男で、年配はほぼヴィデと同じくらいであるが、一方彼は詩才に長《た》け、広く海洋の詩人として知られている。
 柔和な双顎《ふたあご》の上は、何から何まで円みをおびていて、皮膚はテカテカ蝋色に光沢《つや》ばんでいる。また唇にはいつも微かな笑いが湛えられていて、全身になんともいえぬ高雅な感情が燃えているのだった。
 それに反して石割苗太郎は、神経的な、まるで狐みたいな顔を持っていた。
 彼は即座に感情を露《あら》わして、その皮膚の下に、筋肉の反応がありありと見えるくらいであるが、その様子はむしろ狂的で悲劇的で、絶えず彼は、自分の頓死を気づかっているのではないかと思われた。
 しかし、最後の八住衡吉となると、誰しもこれが、ウルリーケの夫であるかと疑うに相違ない。
 それは、世にも痛ましく、浅ましいかぎりであったからだ。衡吉ははや六十を越えて、その小さな身体と大きな耳、まるい鼻には、どこか脱俗的なところもあり、だいたいが人の良い堂守と思えば間違いはない。
 ところが、その髪を仔細に見ると、それも髭も玉蟲色に透いて見えて、どうやら染められているのに気がつくだろう。そうして、愚かしくも年を隠そうとしていることは、一方に二十いくつか違う、妻のウルリーケを見れば頷《うなず》かれるが、事実にも衡吉は、不覚なことに老いを忘れ、あの厭わしい情念の囚虜《とりこ》となっているのだった。
 その深い皺、褪せた歯齦《はぐき》を見ると、それに命を取る病気の兆候を見出したような気がして、年老いて情慾の衰えないことが、いかに醜悪なものであるか――如実に示されていた。
 そのせいか、大きな花環を抱いているそのすがたにも、どこか一風変った、感激とでも云いたいものがあって、おそらく思慮や才智も、充分具えているに違いないが、同時にまた、痴呆めいた狂的なものも閃《ひらめ》いているのだった。
 そうして、以前はその四人が、同じ室戸丸の高級船員だったことが明らかになれば、ぜひにも読者諸君は、それと失明との関係に、大きな鎖の輪を一つ結びつけてしまうに相違ない。
 そのおりウルリーケは、静かに列の間を、岬の鼻に向って歩んでいった。
 ウルリーケが立ち止まって、波頭の彼方を見やったとき、その顔には、影のような微笑が横切った。それはごく薄い、やっと見えるか見えないぐらいの、薄衣《ヴェール》のようなものだったが、しばし悲しい烙《やき》印の跡を、覆うているかのように見えた。
 ウルリーケは、見たところ三十がらみであるが、実際は四十に近かった。
 のみならず、その典型的な北欧型《スカンディナヴィアン・タイプ》といい、どうみても彼女は、氷の稜片で作り上げられたような女だった。生え際が抜け上がって眉弓が高く、その下の落ちくぼんだ底には、蒼《あお》い澄んだ泉の
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