らグワンと一つ、御見舞申してもらいたいもんだな。なアに、君の腕なら、潜航艇も抹香鯨《スパーム・ホエール》も同じことさね」
「いやかえって、明日入港というような晩が危険なんです。船長、甲板で葉巻は止めていただきましょう」
 と、銜《くわ》えていた葉巻を、グイと引き抜いたとき、かたわらにいた、無電技師がアッと叫び声を立てた。
「おいヴィデ君、ありゃなんだ?」
 そうして一同は、高鳴る胸を押えて、凝視することしばしであった。
 飛沫《しぶき》のなかを、消えあるいは点いて……闇の海上をゆく微茫《びぼう》たる光があった。その頃は、小雨が太まってき長濤《うねり》がたかく、舳《へさき》は水に没して、両舷をしぶきが洗ってゆく。そうして、ヴィデは部署につき、無電技師は、電鍵《キイ》をけたたましく打ちはじめたのである。
「危険に瀕す。現在の位置において、救助を求む」
 その返電に、晩香波《バンクーバー》碇泊艦隊から、急派の旨を答えてきたが、しかし、時はすでに遅かった。
 ヴィデも、長濤《うねり》に阻まれて、照尺を決めることが出来ない。なにしろ、相手は一点の灯、こちらは、闇にうっすらと浮く巨館のような船体である。それが、悔んでも及ばぬところの室戸丸の不幸であった。
 煙筒は、真黒な煤煙《ばいえん》に混じえて、火焔を吐き出しはじめた。船体が、ビリビリ震動して、闇に迫る怪艇の眼から遁《のが》れようとした。
 高速力で、旋廻を試みながら、絶えず、花火のような火箭《ロケット》を打ち上げていた。しかし、波間の灯は、室戸丸から執拗に離れなかったのである。やがて、警砲が放たれ、右舷に近く水煙があがった。
「だめです、船長。なまじ※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《あが》いたら、僕らは復讐されますぜ。発砲はやめます。敵艇の砲手の腕前は、驚くべきものですよ。断じて、盲目弾《めくらだま》ではない。最初の警砲は、本船の右舷近くに落ちたでしょう。それから、旋廻したにもかかわらず、二の弾は、船首の突梁《とつりょう》に命中したのです。船長、本船は翻弄されているんです」
 そう云って、ヴィデの蒼白な顔が、砲栓《ほうせん》から離れようとしたとき、三の弾が、今度は船尾旗桿に囂然《ごうぜん》と命中した。
「よろしい、抵抗を中止して、君の意見に従おう」
 と同時に、機関《エンジン》の音がやみ、石割一等運転手が舵機室から出てきた。彼はそれまで、あわよくば衝角を狙おうと、操舵していたのであったが、船長の決意は、全員の安危に白旗の信号を送ったのであった。
 ところが、その瞬間、四の弾が舷側を貫いて、機関室に命中した。そうして、進行を停止した船に、艇から、次の信号が送られたのであった。
「幹部船員四名、書類を持って艇に来たれ」
 かくて、八住船長以下、犬射事務長、ヴィデ砲手、石割一等運転手の四人が、全員に別れを告げ、船を離れ去ることになったのである。
 その直後に、全員が短艇《ボート》で、四散するさまも、また哀れであった。が、まもなく、室戸丸に最後の瞬間が訪れた……
 燃料や食料を、積み得るだけ艇に移したうえ、室戸丸は、五発の砲弾を喰いそのまま藻屑《もくず》と消えてしまったのである。
 室戸丸は、みるみる悲惨な傾斜をなしてゆき、半ば以上も海面に緑色《りょくしょく》の船腹が現われてきた。やがて、鈍い、遠雷のような響きがしたかと思うと、いきなり船首から真っ縦に水に突き刺った。そして、たかい、長濤《うねり》のような波紋が、艇をおどろしく揺《ゆす》りはじめたのである。
 しかし、艇内に収容されて、最初の駭《おどろ》きというのは、この船が独艇ではなく、墺太利《オーストリヤ》の潜航艇だということであった。
「驚いた。だが光栄至極にも、われわれはフォン・エッセンの指揮下にある、潜航艇に乗り込んでしまった。あの人は、墺太利《オーストリヤ》の、いや欧羅巴《ヨーロッパ》きっての名将なんだ。鬼神、海神といわれる――いつかウインに、記念像《デンクマル》を持つのは、この人以外にはないというからね」
 ヴィデがすぐ、こんなことを、一同の耳に囁《ささや》きはじめた。乗組員は二十名、艇《ふね》は、一九〇六年の刻印どおり旧型の沿岸艇だ。
 巡航潜水艇ではない。それにもかかわらず、七つの海を荒れまわる胆力には驚嘆のほかないのである。
 しかも、艇内の四人は、厚遇の限りを尽されていた。どこでも、自由に散歩ができるし、おりには、艦長とも戯《ざ》れ口を投げ合う。
 そして艇は、女王《クイーン》シャーロット島《ランド》を後に、北航をはじめたのであったが、まもなく艇首をカムチャツカに向けた。
 その間も、十三|節《ノット》か十四節で、たいてい海面を進んで行った。事実水中に潜ったことは、数えるほどしかなかった。一度はかれこれ、五
前へ 次へ
全37ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング