fの底深さに怖れを感ずるのだった。
が、その折、法水は右手の壁に顎をしゃくって、検事に見よとばかりに促《うなが》した。そこは、ウルリーケの室《へや》に続く合いの扉《ドア》で、わずかに透いた隙間から、室内の模様が手にとるごとく見えた。壁には、脂《やに》っぽい魚油が灯されていて、その光が、枢《くるる》の上の艇長の写真に届いているのだが、その下で、ウルリーケがぼんやりと海を眺めている。
その前方には、防堤が黒いリボンのように見えて、その上に、星が一つまた一つとあらわれてくる。
しかし、検事はその遠景でなしに、なにを認めたのであろうか、思わず眼をみはって吐息を洩らした。
なぜなら彼は、夫の死にもかかわらず、華美《はで》な平服《ふだんぎ》に着換えた、ウルリーケを発見したからである。
「こりゃ驚いた――あの女は亭主が殺されるまでは、喪服を着ていて、死んでしまうと、今度は快走艇着《ヨットぎ》に着換えてしまった。明らかにウルリーケは、八住を卑下しているんだ。だが、どう考えても、犯人じゃないと思うね。自分の熱情の前には、何もかも忘れて、ただそれのみを、ひたむきに露出《むきだ》してしまうのだ。ねえ法水君、そういった種類の女には、きまって犯罪者はいないものだよ」
と旧《もと》の卓子《テーブル》の所まで戻って来ると、彼は小声で法水に囁いた。
「だが一応は、アマリリスを調べてみる必要があると思うね。朝枝の云うのが、もし真実だとすれば、アマリリスをウルリーケが持ち込むと同時に、殺人が起ったと云えるだろう。そして、それまで十何日か鎖ざしていた蕾が、その時パッと開いてしまったのだ……」
海霧《ガス》が扉《ドア》の隙からもくもく入り込んで来て、二人の周囲《ぐるり》を烟《けむり》のように靡《なび》きはじめた。が、それを聴くと、法水は突然坐り直したが、すると頭上の霧が、漏斗《じょうご》のように渦巻いて行くのだ。彼は手にした「ニーベルンゲン譚詩《リード》」を、縦横に弄びながら、
「冗談じゃないね。この事件に、心理分析も検証もくそもあるもんか。あのトリエステに始まった、大伝奇の琴線に触れることだよ。で、先刻《さっき》この本を見たとき、ふと思いあたったことだが、君はシャバネーが|運命の先行者《ペロール・ゴアー・オヴ・デスティニー》と云った、憑着《ひょうちゃく》心理を知っているかね。かりに、自分の境
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