ツをあげなかった――それも、すこぶる重大な疑問じゃないかと思うよ。僕は、そうしている君を見ると、じつにやりきれない気持になるのだがね。まして君は、夜な夜な海から上がって、防堤に来る男がある――と云う。もし、それが真実だったら、この朦朧とした結合《コンビネーション》には、永劫解ける望みがない」
「そうなんだ支倉君、まさに|時は過ぎたり《ディ・フリスト・イスト・ウム・エンデ》――さ。この事件の帰するところは、さしづめ、この一点以外にはないと思うよ」
 と薄闇の中から、法水が声を投げると、検事は慌《あわ》てて両手を握りしめた。そして、
「なに、|時は過ぎたり《ディ・フリスト・イスト・ウム・エンデ》――本気か法水君、君は捜査を中止しろと云うのか」
 と叫んだが、その時意外にも、法水はこらえ兼ねたように爆笑を上げた。
「ハハハハハ冗談じゃない。僕は、久し振りで陸へ上がった、ヴァン・シュトラーテンのことを云っているのだよ。幕が上がって幽霊船長が、七年ぶりでザントヴィーケの港に上陸するとき、はじめその中低音《バリトン》が、この歌を唱うんだ。つまり、僕が云うのはワグネルの歌劇さ――『|さまよえる和蘭人《ディ・フリーゲンデ・ホレンダー》』のことなんだよ」

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(註)。「さまよえる和蘭人」――船長ヴァン・シュトラーテンは、嵐の夜冒涜の言葉を発したために、永劫罰せられ、海上を漂浪せねばならなくなる。そして、七年目に一度上陸を許されるのだが、ザントヴィーケの港で少女ゼンタの愛によって救われ、幽霊船は海底に沈んでしまう。
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 そうして、手にした埃りっぽい譜本を示したが、その皮肉な諧謔《ユーモア》に、検事は釘づけられるような力を感じた。
 なぜなら、幽霊船長ヴァン・シュトラーテンの上陸――その怪異伝説が、法水の夢想にピタリと一致したばかりでなく、わけても検事には、それによって、一つ名が指摘されたように考えられたからである。
 というのは、途々《みちみち》ウルリーケが話したとおりに、艇長の生地が和蘭《オランダ》のロッタム島だとすれば、当然その符合が、彼を指差すものでなくて何であろう。
 しかし、一方艇長の死は確実であり、またよしんば生存しているにしても、それは、「維納《ウイン》の鉄仮面」の名で表わされているのであるから、検事は考えれば考えるほど、疑
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