ノはいますまい」
最後の応酬がちょっと気色ばんで、険悪だっただけで、艇内におけるいっさいが事なく終ってしまった。
艙蓋《ハッチ》の上には、すでに黄昏《たそがれ》近い沈んだ光が漂っていて、時刻は五時を過ぎていた。検事は、鉄梯子を先に上って行く、法水の背後から声をかけた。
「まったく、殉教的な精神でもなけりゃ、こんな事件にはめったに動けんと思うよ。なにしろ、ほんの極微《ちっ》ぽけな材料だけで、極大の容積を得ようというんだからね。
第一、犯罪史にかつて類のなかった海底ときて、しかも、現場は三重の密室だ。それに兇器がそこから、風みたいに消え失せている――いや扉《ドア》の鍵孔にも、外側から覆いがあるんだからね、風でさえも抜けられんという始末だ。そして、僕らの眼前で、あの殺人鬼は創《きず》口に孔を明け、まんまと鼻をあかしているんだ。
だから、だんだんに深入りしていくと、なにか旧《もと》の夢の中に戻ってゆくような気がするんだぜ」
法水は、検事の手を取って引き上げてから、海気を胸いっぱいに吸い込んだ。そして、すこぶる激越な調子で云った。
「いやこの事件の解決は、つまるところ、一つの定数《コンスタント》を見出すにあるんだ。
で、その一つというのは、かつて『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』の遭難中に、艇長と四人の盲人とをめぐり、いったい何事が行われたか……ということだ。
艇内日誌を見ても、その部分はことごとく切り取られている。ねえ支倉君、たしかあの中には、この事件の暗黒を照らしだすような、重要な一、二枚があるにちがいない。それが分らなくて、金輪際僕らになにが見えてくれるもんか」
と陸《おか》に跳び上がって、二つある岩路《いわみち》の左手を択んで、断崖を蜒《うね》って行った。
「それから支倉君、この事件の女性二人は、それぞれ夫と父の変死に、悲しむ色さえ見せようとはしない。
その比例《プロポーション》たるや、すでに常態ではないだろう。わけても朝枝だが、あの暁の精みたいな娘の中には、何でも怖ろしい夢や幻を、そのままの姿で受けつけるような力が張り切っている。
だから、ブレーク、ベックリン、ロセチ、それにドーレの『失楽園』や、キャメロンの『水神《アンディーン》』、『ニーベルンゲン譚詩《リード》』のデイリッツなど――ああした、すこぶる幻想的《ファンタスチック》な挿画を見るとだね……
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