しかし、これには、権力を代表する指環もなければ、法と虚喝の大神《ヴォータン》も、愛のジーグフリードも、また、英雄の霊を戦場からはこぶ戦女《ワルキューレ》もいない。事実この物語には、われわれの知らぬ、世界に活躍するものは一つとしてないのである。
けれども、篇中のどこかには、奇怪な矮人《わいじん》があらわれる、鳥がいる。鍛冶《かじ》の音楽、呪い、運命、憎悪、魔法の兜《かぶと》がある。時とすると、|森の囁き《ワルド・ワーベン》が奏でられ、また、「怖れを知らぬジーグフリード」の導調《ライトモチフ》につれて、うつくしい勇士の面影が、緑の野におどる陽のようにあらわされる。
しかしそれは、篇中に微妙な影を投げ、いとも不思議な変容となって描かれているのだ。手操りあう運命の糸――それは、いつの世にも同じきものである。ときに応じ、情勢につれて、自由に変形され展開されるとはいえ、絶えず、底をゆく無音の旋律はおなじである。
読者諸君も、つぎの概説中にある黒字の個所に御留意くだされば、けっして、古典の香気に酔いしれてしまうことはないであろう。かえって、物語を綴り縫う謎の一つ一つに、一脈の冷視をそそぐことができると信ずるのである。
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ラインの河畔ウオルムスの城に、クリームヒルトという、容色絶美の姫君が住んでいた。ブルガンディーの王、グンテルの妹である。また、その下流低地にも、一つの城があって、そこには、ジーグフリードと呼ぶ抜群の勇士がいたのである。
ジーグフリードは、ニーベルンゲン族と闘って巨宝を獲たのであるが、それ以前、一匹の巨竜を殺したため、殺竜騎士《ドラゴンスレーヤー》の綽名《あだな》があった。
しかし彼は[#「しかし彼は」は太字]、そのとき泉にしたたる巨竜の血に浴したので[#「そのとき泉にしたたる巨竜の血に浴したので」は太字]、|菩提樹[#「菩提樹」は太字]《リンデン》の葉が落ちた肩一ヶ所のほかは[#「の葉が落ちた肩一ヶ所のほかは」は太字]、全身剣をはねかえす[#「全身剣をはねかえす」は太字]|鋼鉄[#「鋼鉄」は太字]《はがね》のような硬さになってしまったのである[#「のような硬さになってしまったのである」は太字]。
ところが、旅人の口の端を伝わり伝わりして、クリームヒルトの噂が、ジーグフリードの耳に達した。そこでジーグフリードは、ひそかに見ぬ
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