動は、それがためにまったく望みないものと化してしまったのです。
と云うのは、かつて国民讃仰の的だったフォン・エッセン男を、忌むべき逃亡者としたばかりではなく、かたわら一つの人形を作って、それとなく艇長の生存説を流布しはじめたのでした。
それが今日、維納《ウイン》の噂に高い鉄仮面で、フォールスタッフの道化面を冠った一人の男が、郊外ヘルマンスコーゲル丘のハプスブルグ望楼に幽閉されていると云うのです。
そうなって、重大な国家的犯罪者らしいものと云えば、まず艇長をさておき外にはないのですから、その陋策がまんまと図星を射抜きました。そして、情けないことに墺太利《オーストリヤ》国民は、付和雷同の心理をうかうかと掴み上げられてしまったのです。
で、聴くところによると、その男の幽閉は一九一八年から始まっていて、最初はグラーツの市街を、身体中に薔薇と蔦《つた》とを纏《まと》い、まるで痴呆か乞食としか思われぬ、異様な風体で徘徊《はいかい》していたというそうなのです。
しかし、すでに海底深く埋もれているはずの艇長が、どうして、故国に姿を現わし得ましょうや。
まさに左様、艇長フォン・エッセン男爵の墓は、東経一六〇度二分北緯五十二度六分――そこに、いまも眠りつづけているのです。
そうして、ハプスブルグ家の王系は、彼の死とともに絶えたのですが、それを再び、栄光のうちに蘇《よみがえ》らせようとしても何事もなし得ず、今や戦史と系譜の覇者は、二つながらに埋もれゆこうとしているのです」
老人の悲痛な言葉が最後で追憶が終り、夫人は海に花環を投げた。
そして、一同は打ち連れ立って、岬を陸の方に歩みはじめたのであるが、艇長フォン・エッセンの死に対する疑惑は、いまやまったく錯綜たるものに化してしまった。
一同は、奇怪な恐怖に駆られて、夢の中をさ迷い歩くような惑乱を感じていたのである。わけても、その得体の知れない蠢動《しゅんどう》のようなものは、四人の盲人に、はっきりと認められた。
その四人は、一人として口を開くものがなく、互いに取り合った手が微かに顫《ふる》え、なにか感動の極限に達しているのではないかと思われた。彼らは明らかに、これから乗り込もうとする「|鷹の城《ハビヒツブルグ》」に恐怖を感じているのだ。
ところが、当の「鷹の城」は、その時岩壁を縫い、岬の尻の入江の中で、静かに揺れてい
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