朝風の和やかな気動が、復六の縮毛《ちぢれげ》をなぶるように揺すっていたが、彼は思案げに手を揉《も》み合せるのみで、再びあの微笑が頬に泛《うか》んではこなかった。
 そうして、犬射復六が座に戻ると、今度は一人の老人が、道者杖《しるべづえ》をついて向うの列から抜け出てきた。
 その老人は、もちろん追放された復辟《ふくへき》派の一人で、長い立派な髯に、黄色い大きな禿頭をした男だったが、その口からは、艇長死体の消失をさらに紛糾させ、百花千|瓣《べん》の謎と化してしまうような事実が吐かれていった。
「儂《わし》は、王立《ロイヤル》カリンティアン快走艇《ヨット》倶楽部《くらぶ》員の一人として、かつてフォン・エッセン男爵に面接の栄を得たものでありますが、儂ですらも、これまではさまざまな浮説に惑わされ、艇長の死を容易に信ずることができなかったのでした。
 それが、今や雲散霧消したことは、なにより墺太利《オーストリヤ》海軍建設以来最初の英雄であるところの、フォン・エッセン閣下のため祝福さるべきであろうと信じます。
 けれども、『|鷹の城《ハビヒツブルグ》』そのものは、きわめて初期の沿岸艇でありまして、おそらく艇長のような、鬼神に等しい魔力を具えた人物でない限りは、それによって、大洋を横行するなどは絶対不可能に違いないのです。だが儂は、あのおり『鷹の城』の脱出を耳にしたとき、ふと暗い迷信的な考えに圧せられました。
 と云うのは、元来あの艇は、ゲルマニア型として墺太利帝国最初の潜航艇だったのですが、その中膨れのした船体を御覧になって、これはキムブルガーの唇([#ここから割り注]ハプスブルグ家代々の唇の特徴[#ここで割り注終わり])じゃ――と陛下《へいか》が愛《め》でられたほどに由緒あるもの――それが沿岸警備にもつかず、塗料の剥げた船体を軍港の片隅に曝《さ》らしていたのは何が故でしょうか。
 それは、シュテッヘ大尉の消失――そのトリエステ軍港の神秘が、そもそもの原因だったのです。
 一九一四年開戦瞬前に起って、さしも剛毅《ごうき》な海兵どもを慄《ふる》え上がらせたというその不思議な出来事は、いま耳にした艇長屍体の消失と、生死こそ異なれ、まったく軌道を一つにしているではありませんか。
 夫人は御承知でしょうが、シュテッヘ大尉は、フォン・エッセン閣下の莫逆《ばくぎゃく》の友でありまして、同じ快
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