可遊さん、そんな早く回しちゃ、眼が回ってならないよ。止めて、止めて――と切なそうに頼む声を聴いたと云うのだがねえ。そうすると、当然可遊の方から挑みかけた無理心中と云う事になってしまうけれども、そうなるとまた、今度は身体が竦《すく》み上《あ》がるような思いがして来ると云うのは、その矢車の事なのさ。現実その時は、ゆかり[#「ゆかり」に傍点]の耳にさえも、最初からゴトンゴトンと云う間伸びのした調子が続いていて、緩やかな轆轤《ろくろ》の音は変わらなかったと云うのだからね。とにかく、それ以来六十年の間と云うものは、例えばそれが合意の心中であったにしてもだよ、あの時小式部さんの取り済ましたような顔色と、その矢車の響との二つが、何時までも私の頭から離れなくなってしまったのさ」
そのように、可遊小式部の心中話が、その年の宵節句を全く湿やかなものにしてしまい、わけても光子は、それから杉江の胸にかたく寄り添って階段を下りて行ったのだった。然し、一日二日と過ぎて行くうちには、その夜の記憶も次第に薄らぎ行って、やがて月が変ると、その一日から大博覧会が上野に催された。その頃は当今と違い、視界を妨げる建物が何一つないのだから、低い入谷田圃からでも、壮大を極めた大博覧会の結構が見渡せるのだった。仄《ほん》のり色付いた桜の梢を雲のようにして、その上に寛永寺《かんえいじ》の銅《あか》葺屋根が積木のようになって重なり合い、またその背後には、回教《サラセン》風を真似た鋭い塔の尖《さき》や、西印度式の五輪塔でも思わすような、建物の上層がもくもくと聳え立っていた。そして、その遥か中空を、仁王立ちになって立ちはだかっているのが、当時日本では最初の大観覧車だったのだ。
所が、その日の夕方になって、杉江が二階の雨戸を繰ろうとし、不図|斜《はすか》いの離れを見ると、そこにはてんで思いも付かぬ異様な情景が現れていた。全く、その瞬間、杉江は眼前の妖しい色の波に、酔いしれてしまった。けれども、それは、決して彼女の幻ではなく、勿論遠景の異国風景が及ぼしたところの、無稽な錯覚でもなかったのである。その時、彼女の眼に飛び付いて来た色彩と云うのは、殆んど収集する隙がないほどに強烈を極めたもので、恰度めんこ絵か絵草紙の悪どい石版絵具が、あっと云う間に、眼前を掠め去ったと云うだけの感覚に過ぎなかった。平生ならば、夜気を恐れて、四時過ぎにはとうに雨戸を鎖ざしてしまう筈のお筆が、その日はどうした事か、からりと開け放っているばかりでなく、縁に敷物までも持ち出して、その上にちんまり坐っているのだった。それだけの事なら何処に他奇があろうぞと云われるだろうが、その時、或は、お筆が狂ったのではないかとも思われたのは、彼女があろう事かあるまい事か、襠掛《しかけ》を羽織っているからだった。全く、八十を越えて老い皺張った老婆が、濃紫の地に大きく金糸の縫い取りで暁雨傘を描き出した太夫着を着、しかも、すうっと襟を抜き出し、衣紋《えもん》を繕っているのであるから、それには全く、美くしさとか調和とか云うものが掻《か》き消《う》せてしまって、何さま醜怪な地獄絵か、それとも思い切って度外れた、弄丸作者《しなだま》の戯画でも見る心持がするのだった。然し、次第に落ち着いて来ると、お筆が馳せている視線の行手に杉江は気が付いた。それがいつもの通り、口を屹《き》っと結んでいて、その※[#縦長の「へ」を右から、その鏡像を左から寄せて、M字形に重ねたような記号、368−9]《いりやま》形の頂辺《てっぺん》が殆んど顔の真中辺まで上って来ているのだが、その幾分もたげ気味にしている目窪の中には、異様に輝いている点が一つあった。そして、そこから放たれている光りの箭が、遠く西の空に飛んでいて、寛永寺の森から半身を高く現し、その梢を二股かけて踏んまえている大観覧車に――はっしと突き刺っているのだ。
三、老遊女観覧車を買い切ること
並びにその観覧車逆立ちのこと
仮りにもし、それが画中の風物であるにしても、遠見の大観覧車と云う開花模様はともかくとして、その点晴に持って来たのが、ものもあろうに金糸銀糸の角眩ゆい襠掛――しかもそれには、老いと皺とではや人の世からは打ち※[#「てへん+去」、369−2]がれている老遊女が、くるまり眼をむいているのであるから、その奇絶な取り合せは、容易に判じ了せるものではなかった。のみならず、遠く西空の観覧車に、お筆が狂わんばかりの凝視を放っていると云う事は、また怖れとも嗤《わら》いともつかぬ、異様なものだった。けれども、そうしているお筆を眺めているうちには、何時となく、彼女が人間の限界を超絶しているような存在に考えられて来て、そこから満ち溢れて来る、不思議な力に圧倒されてしまうのだった。が、またそうかと云ってその得体の知れぬ魔力と云うのが、却って西空の観覧車にあるのではないかと思われもするので……、ああでもない斯うでもないと、とつおいつ捻り回しているうちには、遠景の観覧車も眼前にある異形なお筆も、結局一色の雑然とした混淆の中に、溶け込んでしまうのだった。然し、そうして、お筆の動作に惹かれて行ったせいか、杉江は、観覧車の細かい部分までも知る事が出来た。
それには細叙《さいじょ》の必要はないと思うが、大体が直径二、三町もあろうと思われる、巨大な車輪である。そして、軸から輻射状に発している支柱が、大輪を作っていて、恰度初期の客車のような体裁をした箱が、その円周に幾つとなくぶる下っている。勿論、それが緩やかに回転するにつれて、眼下に雄大な眺望が繰り広げられて行くのだった。が、その客室のうちに、一つだけ美麗な紅色に塗られたのがあって、それが一等車になっていた。
その紅車《あかぐるま》の一つが、お筆の凝視の的であった事は、後に至って判明したのだったけれども、彼女の奇怪な行動はその日のみに止まらず、翌日もその次の日もいっかな止まろうとはしなかったので、その毒々しいまでの物奇《ものず》きには、もう既に呆れを通り越してしまって、何か凸凹の鏡面でも眺めているような、不安定なもどかしさを感じて来るのだった。然し、そうしているお筆を見ていると、その身体には日増しに皮膚が乾しかすばって行って、所々水気を持った、黒い腫物様の斑点が盛り上って来た。それでなくとも、鼻翼《こばな》や目窪や瞳の光りなどにも、何となく、目前の不吉を予知しているような兆が現れているので、最早寸秒さえも吝《おし》まなくてはならぬ時期に達しているのではないかと思われた。勿論光子は、怖ろしがって近付かなかったけれども、杉江は凡《あら》ゆる手段を尽して、お筆の偏狂を止めさせようとした。が、結局噛みつくような眼で酬《むく》い返《かえ》されるだけで、彼女は幾度か引き下らねばならなかったのだ。然し、その四日目になると、お筆は杉江を二階に呼んで、意外な事にはその一等室の買切りを命じた、しかもその上更に一つの条件を加えたのであったが、その影には、鳥渡説明の出来ぬような痛々しさが漂っていて、生気を、その一重に耐《こら》え保っている人のように思われた。
「とにかく、いずれ私の死に際にでも、その理由は話すとしてさ。さぞ、お前さんも云い難いだろうがね。この事だけは、是非なんとか計らって貰いたいのだよ。あの観覧車の中に、一つ紅色に塗った車があるじゃないか。それが、毎日四時の閉場《はね》になると、一番下になってしまって、寛永寺の森の中に隠されてしまうのだよ。いいからそれを、私は閉会《らく》の日まで買い切るからね。一つ、一番|頂辺《てっぺん》に出しておくれ――って」そのように、お筆が思いも依らぬ空飛な行動に出たのは、一体何故であろうか。然し、その理由を是非にも聴こうとする衝動には、可成り悩まされたけれども、杉江はただ従順《すなお》に応《いら》えをしたのみで、離れを出た。そうして、厚い札束と共に、妖しい疑問の雲をお筆から譲られたのであったが、何故となくその紅色をした一等車と云っただけで、さしもお筆の心中に渦巻いている偏執が判ったような気がした。あの紅色の一点――それがどうして、下向いてはならないのだろうか。また、立兵庫を後光のように飾っている笄の形が、よくなんと、観覧車にそっくりではないか。
そうして、翌日になると、その一等室の買切りが、はや市中の話題を独占してしまったが、詰まる所は、尾彦楼お筆の時代錯誤的な大尽風となってしまい、その如何にも古めかし気な駄駄羅《だだら》振りには、栗生武右衛門チャリネ買切りの図などが、新聞に持ち出された程だった。然し、やがて正午《ひる》が廻って四時が来、愈々《いよいよ》大観覧車の閉場時《はねどき》になると、さしも中空を塞いでいる大車輪にも、見事お筆の所望が入れられたのであろう。ぴったりと紅の指針を宙に突っ立てたのだった。
「ああ、やれやれこれでいいんだよ。お前さんには、えらいお世話になったものさ。だけど杉江さん、念を押すまでの事はないだろうが、あれは必ず、閉会《おわり》までは確かなんだろうね。もし一度だって、あの紅い箱が下で止まるようだったら、私しゃ唯あ置きゃしないからね」
と云うお筆の言葉にも、もう張りが弛んでいて、全身の陰影からは一斉に鋭さが失せてしまった。それは、あたかも生れ変った人のように見えるのだった。遂ぞ今まで、襠掛を着て観覧車を眺めていたお筆と云う存在は、とうに死んでしまっていて、唯残った気魄だけが、その屍体を動かしているとしか思えなかったほど、彼女の影は薄れてしまったのである。そして、その日は、縁からも退いてしまって、再びお筆は、旧通りの習慣を辿る事になった。けれども、その時の、杉江の顔をもし眺めた人があったとしたら、たしかその中に燃えさかっている、激情の嵐を観取する事が出来たであろう。彼女は雨戸に手をかけたままで、茫《ぼ》んやり前方の空間を眺めていた。そこには大観覧車の円芯の辺りを、二、三条の夕焼雲が横切っていて、それが、書割の作り日の出のように見えた。そして、問題の一等車が、予期した通り円の頂点に静止しているのだけれども、そのもの静かな黄昏が、今宵からのお筆の安かな寝息を思わせるとは云え、却って杉江にとると、それが魔法のような物凄い月光に感ぜられたのであった。
それから、彼女は雨戸を繰り、硝子戸を締めて、階段を下りて行ったが、何故か本屋に帰るではなく、離れの前庭にある楓の樹に寄りかかって、じっと耳を凝らし始めた。すると、それから二、三分後になって、お筆がいる二階の方角で、キイと布を引き裂くような叫声が起った。その瞬間杉江の全身が一度に崩れてしまい、身も世もあらぬように戦《おのの》き出したと思われたけれども、見る見る間に彼女の顔は、鉄のような意志の力で引き締められて行った。そして、本屋の縁を踏む頃には、呼吸も平常通りに整っていたのである。然し、それから一週間程経って、家婢が食事を運んで行くと、意外にもそこで、尾彦楼お筆の絶命している姿が、発見されたのであった。その死因は、明白な心臓麻痺であり、お筆は永い業の生涯を、慌だしくもまるで風のように去ってしまった。
「どうして先生、あの日には、お祖母さまが辛《き》っと御安心なさったのでしょう。それだのに、何故ああも急にお没くなりになったのでしょうか」とはや五七日も過ぎ、白木の位牌が朱塗の豪奢なものに変えられた日の事であった。杉江と居並んで、仏壇の中を覗き込んでいるうちに、お光はそう言ってから、金ぴかの大姉号を眺め始めた。
「それは、斯《こ》う云う訳なので御座いますよ。貴女はまだ、その道理がお解けになる年齢《としごろ》では御座いませんが、そう云う疑念《うたがい》が貴方の生長《そだち》を妨げてはと思いますので、ここで、思い切ってお話しする事に致しましょう」
と杉江は、今までにない厳粛な態度になって、お光を自分の胸に摺り寄せた。
「実を申しますと、お祖母さまは、私があの世にお導きしたので御座います。と申すよりも、あの大観覧車に殺されたと云った方が――いいえ、その原因
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