の険相には似もせず、愛想よく二人を招じ入れたが、そうしてはじめ光子の童心を襲った悪夢のような世界は、続いて涯てしもなく、波紋を繰り広げて行った。老いた遊女が年に一度催す異形な雛祭りと云うのが、たとえ如何なるものであるにせよ……、また既にそこに宿っている神秘が、二人を朦朧《もうろう》とさせているにもせよ……、決してその本体は、光子が描き出したような夢幻の中にはなかったのである。

     二、傾城釘抜香《けいせいくぎぬきこう》のこと
        並びに老遊女観覧車を眺め望むこと

 雛段の配置には、別に何処と云って変わった点はなかったけれども、人形がそれぞれに一つ――例えば、官女の檜扇には根付、五人囃しが小太鼓の代りに印伝の莨《たばこ》入れを打つと云った具合で、そのむかしお筆を繞《めぐ》り粋《いき》を競った通客共の遺品が、一つ一つ人形に添えられてあった。所が、杉江の眼が逸早《いちはや》く飛んだのは、一番上段にある内裏雛《だいりびな》に注がれた。そのうち女雛の方が、一本の長笄《ながこうがい》――それは、白鼈甲に紅は鎌形の紋が頭飾りになっているのを、抱いていたからである。杉江は、もの静かに眼を返して、それをお筆に問うた。
「ねえ御隠居様、たしかこの笄は、花魁《おいらん》衆のお髪《ぐし》を後光のように取り囲んでいるあれそうそう立兵庫《たてひょうご》と申しましたか、たしかそれに使われるもので御座りましょう。けども真逆《まさか》の女のお客とは……」
 お筆は、相手が気に入りの杉江だけに、すぐその理由を説明しようとする気配を現した。クッキリ結んだ唇が解けて、顔が提灯を伸ばしたように長くなったが、やがてその端から、フウとふいごの風のような呼吸が洩れて行って、
「いいえ、実はそれが、私のものなんだよ。私のこの白笄は、いわば全盛の記念《かたみ》だけど、玉屋の八代の間これを挿したものと云えば、私の外何人もなかったそうだよ。それには、こう云う風習《しきたり》があってね」と国分《こくぶ》を詰めて、一口軽く吸い、その煙草を伊達に構えて語り出した。
「まあ御覧な。笄《こうがい》の頭がありきたりの耳掻き形じゃなくて、紅い卍字鎌の紋になっているだろう。それが、朋輩だった小式部《こしきぶ》さんの定紋で、たしか、公方様お変りの年の八朔《はっさく》の紋日だと思ったがね。三分以上の花魁八人が、それぞれに定紋を彫った、白笄をお職に贈ると云う風習があるんだよ。所が杉江さん、私が一生放さないと云うに就《つ》いては、此処に酷《むご》い話があってね。それには、お前さん達は知るまいけれども、最初まず、『釘抜』と云う訳を聴いて貰いたいのさ」
 お筆が洩らした「釘抜」という言葉の意味は、あの肉欲世界と背中合わせになっていて、時には其処から鬼火が燃え上ろうし、また或る時は、承梯子《かるわざこ》の錬術場《きたえば》と云うような役目も務めると云った、一種の秘密境なのである。遊女には、永い苦海の間にも精気の緩急《おきふし》があって、○○○の肌が死ぬほど鬱《うっ》とうしく感ぜられ、それがまるで、大きな波の蜒《うな》りの底に横わっていて、その波が運んでくれるまではどうにもならないと云ったような、何とも云えぬやるせなさを覚える時期があるのだ。それをまかし[#「まかし」に傍点]と云って、その時期には自然○○○が疎《うと》くなり、稼ぎが低くなるのであるから、その対策として、楼主側では「釘抜」と呼ぶ制裁法を具《そな》えていた。それには、幾つかの形式があるけれども、そのうちで最も大仕掛な、機械化されたものが玉屋にあったのだ。
 恐らく、その折檻法の起因と云えば、宗教裁判当時かマリア・テレジア時代の拷問具が、和蘭《オランダ》渡りとなったのであろうが、まず、大きな矢車と思えば間違いはない。その矢柄の一つに、二布だけの裸体にした遊女を括り付けて、そこに眩暈《めまい》を起させぬよう、緩かに回転して行くのだ。また、それから行う折檻の方法が、二種に分れているのであって、枕探しをしたとか、不意の客と深間になったとか云う場合などは、身体の位置が正常《まとも》になった時――即ち、頭を上に直立した際を狙って、背を打つのである。勿論《もちろん》それには、苦痛がまともに感ぜられるのであるが、単純なまかし[#「まかし」に傍点]の場合だと、身体が逆立して血が頭に下り、意識が朦朧となった際を打つのであるから、その痛感は些程《さほど》のものではなく、たとえばピリッと電光のように感じはしても、間もなくその身体が、平行から直立の方に移って行くので、従って、その疼《うず》きと共に、血が快《きもち》よく足の方に下って行って、そこに得《え》も言われぬ感覚が齎《もた》らされて来るのである。つまり、これなどは、廓と云う別世界が持つ地獄味のうちで、最も味の熾烈《しれつ》な、そして華やかなものであろう。が、そうして被作虐的《マゾフィスムズ》な訓練をされると、遊女達の精気が喚起されるばかりではなく、その効果が、東室《とうしつ》雨《あめ》起《おこらば》南室《なんしつは》晴《はる》るの○○○○○○○○○、○○○○○されるか、恐らく想像に難くはないであろうと思われる。
 所で玉屋では、その「釘抜」を行うのに医者を兼ねた豊妻可遊と云う男を雇っていた。そして、その場所が奥まった中二階の裏に出来ていて、大矢車のうえした――恰度遊女の頭に当る所には、天井と床とに二個所、硝子《びいどろ》の窓が切り抜かれていた。その床の一つは、その下が階段の中途になっていて、それは、当今で云うところの曇硝子に過ぎなかったが、天井のものには、鏡が嵌まっていて、そんな所にも、些細な事ながら催情的な仕組みが窺《うかが》われるのだった。さて、お筆の朋輩の小式部にも、勤め以来何度目かのまかし[#「まかし」に傍点]が訪れて来たのだが、その際彼女が逢った「釘抜」の情景を、この大変長い前置の後に、お筆が語り始めた。
「そんな訳で、小式部さんにも、その日『釘抜』をやる事になったのだがね。その前に、あの人は私を捉まえて、その些中《さなか》になるとどうも胸がむかついて来て――と云うものだから、私は眼を瞑《つむ》るよりも――そんな時は却って、上目《うわめ》を強《きつ》くした方がいいよ――と教えてやったものさ。だけども、その日ばかりには限らなかったけれど、そのような折檻の痛目を前にしていても、あの人は何処となく浮き浮きしていたのだ。と云うのは、その可遊と云う男が、これがまた、井筒屋《いづつや》生き写しと云う男振りでさ。いいえどうして、玉屋ばかりじゃないのだよ、廓中あげての大評判。四郎兵衛さんの会所から秋葉《あきば》様の常夜灯までの間を虱潰《しらみつぶ》しに数えてみた所で、あの人に気のない花魁などと云ったら、そりゃ指折る程もなかっただろうよ。なあに、もうそんな、昔の惚言《のろけ》なんぞはとうに裁判所だっても、取り上げはしまいだろうがね。だけど、その時の可遊さんと来たら、また別の趣きがあって、却って銀杏八丈の野暮作りがぴったり来ると云う塩梅《あんばい》でね。眼の縁が暈《ぽ》っと紅く染って来て、小びんの後毛《おくれげ》をいつも気にする人なんだが、それが知らず知らずのうちに一本一本殖えて行く――と云うほど、あの人だっても夢中になってしまうんだよ。そりゃ、男衆にだったら、そんな時の小式部さんをさ――あの憎たらしいほど艶やかなししむら[#「ししむら」に傍点]なら、大抵まあ、一日経っても眼が飽《く》ちくなりやしまいと思う」
 とお筆でさえも、上気したかのように、そこまで語り続けたとき、彼女はいきなり言葉を截《た》ち切って、せつなそうな吐息を一つ洩らした。それから、二人の顔を等分に見比べていたが、やがて、目窪の皺を無気味に動かして、声を落した。
「所が杉江さん、人の世の回り舞台なんてものは、全く一寸先が判らないものでね。その時『釘抜』が始められてから間もなくのこと、ぴたりと矢車の音が止んでしまって、二人が何時までも出て来なかったと云うのも無理はないのさ。それがお前さん。心中だったのだよ。私も、後から怖々《こわごわ》見に行ったけれども、恰度矢車が暗がりに来た所で――いいえ、それは云わなけりゃ判らないがね。小式部さんを括り付けた矢柄が止まっていた位置《ばしょ》と云うのが、恰度あの人が真っ逆か吊りになる――云わば当今《きょうび》の時間で云う、六時の所だったのだよ。つまり、そう云う名が付いたと云うのも、矢車の半分程から下に来ると、眼の中に血が下りて来て、四辺《あたり》が薄暗くなって来るのだし、それに、ぴしりと一叩き食わされてから、また上の方に運ばれて行くと、今度は、悪血がすうっと身体から抜け出るような気がして、恰度それが、夜が明けたと云う感じだったからさ。所が、小式部さんの首には、下締が幾重にも回されていて、その両側には、身体中の黒血を一所に集めたような色で、蚯蚓腫《みみずば》れが幾筋となく盛り上がっている。したが、不思議と云うのはそこで、繁々その顔を見ると、末期《まつご》に悶え苦しんだような跡がないのだよ。真実小式部さんが、歌舞の菩薩であろうともさ。絞め付けられて苦しくない人間なんて、この世に又とあろうもんかな。それから、可遊さんの方は、小式部さんから二、三尺程横の所で、これは、左胸に薬草《くさ》切りを突き立てていたんだがね。それが、胸から咽喉の辺にかけて、血潮の流れが恰度二股大根のような形になっているので、ただ遠くから見ただけでは、何だか首と胴体とが別々のように思われてさ。全くそんなだったものだから、気丈の方では滅多にひけを取らない私でさえも、一時は可遊さんが誰かに切り殺されたんじゃないかとね、まさかに、斯んな粋事《いきごと》とは思えなかった程なんだよ。だから今日この頃でさえも、鰒《ふぐ》の作り身なんぞを見ると、極ってその時は、小式部さんのししむら[#「ししむら」に傍点]が想い出されて来てさ。いいえ、そんな涙っぽい種じゃなくて、たしかあの人には、死身の嗜《たし》なみと云うのがあったのだろうね。絞められても醜い形を、顔に残さなかったばかりじゃない、肌にも蒼い透き通った玉のような色が浮いていて、また、その皮膚《かわ》の下には、同じような色の澄んだ、液でもありそうに思われて来て――いいえ全くさ、私は、小式部さんが余り奇麗なもんだから、つい二の腕のところを圧してみたのだがね。すると、その凹んだ痕の周囲《ぐるり》には まるで赤ぼうふら[#「ぼうふら」に傍点]みたいな細い血の管が、すうっと現れては走り消えて行くのさ。それがお前さん、その消えたり現れたりする所と云うのが、てっきりあの大矢車で――それも、クルクル早く、風見たいな回り方をしているように見えるんだよ」
 と次第に、お筆の顔の伸縮が烈しくなって行って、彼女の述懐には、もう一段――いやもっと薄気味悪い底があるのではないかと思われて来た。杉江は、その異様な情景に、強烈な絵画美を感じたが、不図眼の中に利智走った光が現れたかと思うと光子の肩に手をかけ、引き寄せるようにしながら、
「まあ私には、その情態《ありさま》が、まるで錦絵か羽子板の押絵のように思われて来るので御座いますよ。――御隠居様と小式部さんとが二人立ちで……。でも、笄の色が同しですと自然片方の小式部さんが引き立ちませんわ、ああ左様で、あの方のは本鼈甲に、その頭が黒の浮き出しで牡丹を……。それから御隠居様、お言葉の中からひょいんな気付きでは御座いますけど、その矢車と云うのは、いつも通り緩やかに回っていたのでは御座いませんでしたか」と静かに訊ねると、一端お筆は、眩んだように眼を瞬いたが、答えた。
「所が杉江さん、それが私には未だもって合点が往かないのだがね。実は、そのずっと後になってからだが、ゆかり[#「ゆかり」に傍点]と云う雲衣《くもい》さん付きの禿《かむろ》が、斯う云う事を云い出したのだよ。その時、釘抜部屋と背中合わせになっている中二階で、その禿は、稽古本を見ていたのだが、どうも小式部さんとしか思われない声で――
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