一本殖えて行く――と云うほど、あの人だっても夢中になってしまうんだよ。そりゃ、男衆にだったら、そんな時の小式部さんをさ――あの憎たらしいほど艶やかなししむら[#「ししむら」に傍点]なら、大抵まあ、一日経っても眼が飽《く》ちくなりやしまいと思う」
とお筆でさえも、上気したかのように、そこまで語り続けたとき、彼女はいきなり言葉を截《た》ち切って、せつなそうな吐息を一つ洩らした。それから、二人の顔を等分に見比べていたが、やがて、目窪の皺を無気味に動かして、声を落した。
「所が杉江さん、人の世の回り舞台なんてものは、全く一寸先が判らないものでね。その時『釘抜』が始められてから間もなくのこと、ぴたりと矢車の音が止んでしまって、二人が何時までも出て来なかったと云うのも無理はないのさ。それがお前さん。心中だったのだよ。私も、後から怖々《こわごわ》見に行ったけれども、恰度矢車が暗がりに来た所で――いいえ、それは云わなけりゃ判らないがね。小式部さんを括り付けた矢柄が止まっていた位置《ばしょ》と云うのが、恰度あの人が真っ逆か吊りになる――云わば当今《きょうび》の時間で云う、六時の所だったのだよ。つまり、そう云う名が付いたと云うのも、矢車の半分程から下に来ると、眼の中に血が下りて来て、四辺《あたり》が薄暗くなって来るのだし、それに、ぴしりと一叩き食わされてから、また上の方に運ばれて行くと、今度は、悪血がすうっと身体から抜け出るような気がして、恰度それが、夜が明けたと云う感じだったからさ。所が、小式部さんの首には、下締が幾重にも回されていて、その両側には、身体中の黒血を一所に集めたような色で、蚯蚓腫《みみずば》れが幾筋となく盛り上がっている。したが、不思議と云うのはそこで、繁々その顔を見ると、末期《まつご》に悶え苦しんだような跡がないのだよ。真実小式部さんが、歌舞の菩薩であろうともさ。絞め付けられて苦しくない人間なんて、この世に又とあろうもんかな。それから、可遊さんの方は、小式部さんから二、三尺程横の所で、これは、左胸に薬草《くさ》切りを突き立てていたんだがね。それが、胸から咽喉の辺にかけて、血潮の流れが恰度二股大根のような形になっているので、ただ遠くから見ただけでは、何だか首と胴体とが別々のように思われてさ。全くそんなだったものだから、気丈の方では滅多にひけを取らない私でさえも、一時は可遊さんが誰かに切り殺されたんじゃないかとね、まさかに、斯んな粋事《いきごと》とは思えなかった程なんだよ。だから今日この頃でさえも、鰒《ふぐ》の作り身なんぞを見ると、極ってその時は、小式部さんのししむら[#「ししむら」に傍点]が想い出されて来てさ。いいえ、そんな涙っぽい種じゃなくて、たしかあの人には、死身の嗜《たし》なみと云うのがあったのだろうね。絞められても醜い形を、顔に残さなかったばかりじゃない、肌にも蒼い透き通った玉のような色が浮いていて、また、その皮膚《かわ》の下には、同じような色の澄んだ、液でもありそうに思われて来て――いいえ全くさ、私は、小式部さんが余り奇麗なもんだから、つい二の腕のところを圧してみたのだがね。すると、その凹んだ痕の周囲《ぐるり》には まるで赤ぼうふら[#「ぼうふら」に傍点]みたいな細い血の管が、すうっと現れては走り消えて行くのさ。それがお前さん、その消えたり現れたりする所と云うのが、てっきりあの大矢車で――それも、クルクル早く、風見たいな回り方をしているように見えるんだよ」
と次第に、お筆の顔の伸縮が烈しくなって行って、彼女の述懐には、もう一段――いやもっと薄気味悪い底があるのではないかと思われて来た。杉江は、その異様な情景に、強烈な絵画美を感じたが、不図眼の中に利智走った光が現れたかと思うと光子の肩に手をかけ、引き寄せるようにしながら、
「まあ私には、その情態《ありさま》が、まるで錦絵か羽子板の押絵のように思われて来るので御座いますよ。――御隠居様と小式部さんとが二人立ちで……。でも、笄の色が同しですと自然片方の小式部さんが引き立ちませんわ、ああ左様で、あの方のは本鼈甲に、その頭が黒の浮き出しで牡丹を……。それから御隠居様、お言葉の中からひょいんな気付きでは御座いますけど、その矢車と云うのは、いつも通り緩やかに回っていたのでは御座いませんでしたか」と静かに訊ねると、一端お筆は、眩んだように眼を瞬いたが、答えた。
「所が杉江さん、それが私には未だもって合点が往かないのだがね。実は、そのずっと後になってからだが、ゆかり[#「ゆかり」に傍点]と云う雲衣《くもい》さん付きの禿《かむろ》が、斯う云う事を云い出したのだよ。その時、釘抜部屋と背中合わせになっている中二階で、その禿は、稽古本を見ていたのだが、どうも小式部さんとしか思われない声で――
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