母さまがおむずかりにでもなったら、それこそで御座いますよ」
 と叱るようにして促がすと、あんな妙なお雛様って――と一端は光子が、邪気《あどけ》なく頬を膨らませてすねてはみたが、案外|従順《すなお》に、連れられるまま祖母の室に赴いた。お筆が住んでいるのは、本屋とは回廊で連なっている離れであって、その薄暗い二階に、好んで起き臥しているのだった。その室は、光琳《こうりん》風の襖絵のある十畳間で、左手の南向きだけが、縁になっていた。その所以《せい》でもあろうか。午後になって陽の向きが変って来ると、室の四隅からは、はや翳《かげ》りが始まって来る。鴨居が沈み、床桂に異様な底光りが加わって来て、それが、様々な物の形に割れ出して行くのだ。すると、唯でさえチンマリとしたお筆の身体が、一際《ひときわ》小さく見えて、はては奇絶な盆石か、無細工な木の根人形としか思われなくなってしまうのだった。
 然し、その日のように雛段が飾られて、紅白に染め分けられた雪洞の灯が、朧ろな裾を引き始めて来ると、そこにはまた別種の鬼気が――今度は、お筆の周囲《ぐるり》から立ち上って来るのだった。と云って、必ずしもそれは、緋毛氈の反射の所以ばかりではなかったであろう。恰度《ちょうど》その白と紅の境いが、額の辺りに落ちているので、お筆の顔は、その二段の色に染め分けられていた。額から下は赭っと柿ばんでいて、それがテッキリ、嬰児《あかご》の皮膚を見るようであるが、額から上は、切髪の生え際だけが、微かに薄映み――その奥には、白髪が硫黄の海のように波打っていた。
 然し、それだけでは、余りに顔粧《かお》作りめいた記述である。そのようにして、色の対照だけで判ずるとすれば、さしずめお筆を形容するものに、猩々《しょうじょう》が芝居絵の岩藤。それとも山姥とでも云うのなら、まずその辺が、せいぜい関の山であろうか。けれども、その顔を線だけに引ん剥いてみると、そこには、人間のうちで最も醜怪な相が現れていた。もし、半世に罪業深く、到底死に切れぬような人間があるとしたら、それが疑いもなく、お筆であろう。眉は、付け眉みたいに房々としていて、鼻筋も未だに生々しい張りを見せている。が、その偏平な形は、所謂《いわゆる》男根形と呼ばれるものであって、全くそこだけにはお筆の業《ごう》そのもののような生気がとどまっている。けれども、それ以外には、はや終焉
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