だもう一人、当主には養母に当るお筆《ふで》の三人が住んでいた。そのお筆は、はや九十に近いけれども、若い頃には、玉屋山三郎《たまややまさぶろう》の火焔宝珠《ほうしのたま》と云われた程の太夫《たゆう》であった。しかも、その源氏名の濃紫《こいむらさき》と云う名を、万延頃の細見で繰ってみれば判る通りで、当時唯一の大籬《おおまがき》に筆頭を張り了《おお》せただけ、なまじなまなかの全盛ではなかったらしい。また、それが稀代の気丈女《きじょうもの》、落籍《ひか》されてから貯めた金で、その後潰れた玉屋の株を買い取ったのであるから、云わば尾彦楼にとっては初代とも云う訳……。従って、当主の兼次郎《けんじろう》夫妻は、幾らか血道が繋がっていると云うのみの事で、勿論《もちろん》腕がなければ、打算高いお筆が夫婦養子にする気遣いはなかったのである。所が、そのお筆には、何十年この方変らない異様な習慣《しきたり》があった。全く聴いただけでさえ、はや背筋が冷たくなって来るような薄気味悪さがそれにあったのだ。と云うのは、鳥渡因果|噺《ばなし》めくけれども、お筆が全盛のころおい通い詰めた人達の遺品を――勿論その中には彼女のために家蔵を傾け、或は、非業の末路に終った者もあったであろうが――それを、節句の日暮かっきりに、別の雛段を設《しつ》らえて飾り立てる事だったのである。
それ故、年に一度の行事とは云いながらも、折が折桃の節句の当日だけに、それが寮の人達には、何となく妖怪めいたものに思われていた。その滅入るような品々に、一歳《ひととせ》の塵を払わせる刻限が近付いて来ると、気のせいかは知らぬが、寮の中が妙に黴臭《かびくさ》くなって来て、何やらモヤモヤしたものが立ち罩《こ》めて来るのだ。そして、その翳《かげ》が次第に暗さを加えて、はては光子の雛段にも及んで来ると、雪洞の灯《ひ》がドロリとしたぬくもりで覆われてしまうのだった。然し、孫娘の光子にはそんな懸念は露程《つゆほど》もないと見え、朝から家を外にの、乳母子《ねんね》のような燥《は》しゃぎ方。やがて、日暮れが迫り、そろそろ家並の下を街灯|点《とも》しが通る頃になると、漸く門内の麦門冬《りゅうのひげ》を踏み、小砂利を蹴散らしながら駆け込んで来たが、その折門前では、節句目当ての浮絵からくり[#「からくり」に傍点]らしい話し声――。(京四条河原夕涼みの体。これも夜
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