の腕力を備えた人物だと、尺蠖《しゃくとりむし》みたいな伸縮をしなくても、最初グッと一杯に引いて鐘を一方に傾けておき、その位置が戻らぬように腕だけを使って登ることが出来るだろうからね。そうすると、始めと終りの二度だけ、ガチャリとかすかに打衝《ぶっつか》る音しか立たんわけだよ。」
「すると、君の云う二度目の鐘は。」
「フフフ、あれは潤色的な出来事さ。」熊城は洒々《しゃあしゃあ》として鐘声排除説を主張した。「なるほど、鐘に直接触れた形跡はないのだ! あったにしても、手で押したくらいや振錘《ふりこ》を叩きつけたぐらいでは、大鐘は微動もせんと云うのだから、どうして大鐘が動いて逆に振動が小鐘に伝わり、鐘全体がああ云う首尾顛倒した鳴り方をしたのか判らない。もちろん不思議と云えば、これ以上の不思議はないのだが、しかしこの事件ではそれがホンのつまらない端役に過ぎないのだ。では、なぜかと云うと、鐘と死体を繞《めぐ》って推定されるものが、ことごとく一寸法師ルキーンの驚異的な特徴に一致している。また、そればかりでなく鐘の現象が犯人脱出後に起っているのだからね。[#「鐘の現象が犯人脱出後に起っているのだからね。」に傍点]だから、事件の複雑さを増す戯曲的な色彩にはなっても、とうてい本質を左右するものじゃない。ねえ法水君、捜査官が猟奇的な興味を起したばかりに、せっかく事件の解決を失った例が決して少なくはないのだぜ。いや、僕も危うくその轍《てつ》を踏《ふ》むところだったよ。」
「なるほど、君近来の傑作だけど、」露骨な嘲弄味を見せて、法水が煙の輪を吐いた。「だが、そうなると殺した者と綱を攀《よ》じ登った者と、こう別個の人物が二人現われるわけになるね。」
 熊城は相手が法水だけに、ほとんど怯懦《きょうだ》に近い警戒の色を泛《うか》べたが、検事は腿《もも》を叩いて、
「ウン、それに違いない。」と法水に同意してから、自説を云い出した。
「ねえ熊城君、死体は他殺死体には類例のない妙な格好で、跼《しゃが》んだまま死んでるんだぜ。そればかりでなく、死体を繞《めぐ》って謎だらけなんだ。第一格闘の形跡がないし、苦悶に引ん歪《ゆが》んだ顔や指先をしていても、のた打ち廻ったり逃れようとして床を掻《か》き※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、147−下段11]《むし》った跡もなければ、傷口を押えた形跡も見られない。いくら君でも、気管を切断されただけで、雷撃的な即死は考えられないだろう。それから、外傷は一つだけで、しかもその創道が自殺者以外には見ることのない方向を示していて咽喉を斜上《ななめうえ》に突き上げている。そう云うふうに目標の困難な個所を狙って一撃で効果を収ると云うことは、被害者が故意に便宜な姿勢をとらない限りは、まず不可能と見て差支えあるまい。もちろんルキーンでは、跳躍《ジャンプ》しないと傷口に届かないし、逆にラザレフが跼んでいたと考えれば、すべてがより以上に不可解になってしまう。それにまた、手燭は上から取り落された形跡がなく、着衣にも焦痕《こげあと》がないばかりか、しかも、ああ行儀よく据えられているんだ。だから、僕にはあらゆる状況に渉《わた》って、ラザレフの意志が現われているように思われるのだがね。熊城君、僕はラザレフの死に自殺を主張するぜ。」
「すると、死体はどう云う方法で、兇器を堂外に持ち出したのだね?」
「それは後から抜き取られたのだよ。君はその抜き取った人物を指して、犯人だと云ってるんだ。ところで、奇抜な想像かもしれないが、なにがラザレフを自殺させたか――述べることにしよう。僕はナデコフの置洋燈《スタンド》を見てから、ラザレフとルキーンとの間にもっと深刻な秘密――、と云うより、ルキーンがこの老人の致命的な弱点を握っているのではないか、と考えられて来た。で、それと交換条件にルキーンはジナイーダを求めたのだろうと思うね。しかし、ジナイーダは頑強に拒み続けるので、縺《もつ》れに縺れた紛争は恐らく夜半を越えたに違いないのだ。だから、ルキーンは電報がきても実際は行かずに食堂の中に止っていたのだよ。ところが、そうして抜差《ぬきさし》のならない窮地に陥ったラザレフは、たちまち一策を案じたのだ。それは、妹のイリヤに含めてルキーンに挑《いど》ませることだよ。あの女はどこか変態的なところがあると見えて、自分からルキーンに対する感情を告白しているぜ。しかし、ジナイーダに対する執着の飽くまで強いルキーンは、妹娘には手を触れようともしない。それがために、そのなりゆきを扉《ドア》の隙から窺っていたラザレフは、ついに絶望のあげく自殺をとげてしまったのだよ。君は点け放しになっていた壁燈を憶えているだろう。多分ルキーンが消し忘れたのだろうが、あれがあったばかりに、ルキーン対イリヤの
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