》の脳髄と云っただけのことはあるね。」法水が皮肉に笑うと、ルキーンはちょっと厭な顔をしたが、先を続けた。
「ところがどうでしょう。霙の中に二時間余り曝《さら》されていても、脳病院の裏には人っ子一人来ないのです。そこで始めて、あの電報が、私の幸福を嫉《そね》んだ悪党の仕業だったと云うことが判りました。そして、歩いて帰るよりほかに方法がなくなってしまったのです。」
「しかし、君はそんなに疲れている癖に、現在僕の前へは鉄砲玉のように飛び出したじゃないか。」法水は叩きつけるような語気で云った。
「鐘の音を聴いたからです。われわれの同志の間では、刻限はずれの鐘を変事の警報にしているのです。」ルキーンは身体《からだ》を焦《いら》だたし気にもじらせて、声を慄《ふる》わせた。「鳴ったと思うとすぐやんでしまったのと云い、あの弱々しい音を考えると、なんだか私には、鐘の振綱に触れた手を、理不尽に横合いから遮られたような気がするのです。つまり、すでに行われた変事の発見ではなくて、異変の進行中に鳴らされた救助信号ではないかと思うのです。しかも、それ以前に私は、偽電報で釣り出されています。」
「行こう」検事はたまりかねて叫んだ。「なるほど、鴉《からす》や鳶《とび》ぐらいでは、あの鐘はビクともしないぜ。」
不思議な侏儒《こびと》ルキーンの出現は、それまで多寡《たか》を括《くく》っていた、法水の鐘声に対する観念を一変させた。そして彼は、凄惨な雰囲気の中に、一歩踏み入れたような気がした。…少なくとも、鐘声と一寸法師[#底本では「一寸法帥」と誤記]とが偶然の逢着でさえなければ、因果関係の結論として、いかなる形体《かたち》にせよ、聖堂の中へ残されたものがなければならない。凍った地面がバリバリ砕けて、下の雪水が容赦なくはねかかった。やがて、幾百と云う氷柱《つらら》で薄荷糖《はっかとう》のように飾り立った堂の全景が、朧気《おぼろげ》に闇の中へ現われた。
出入口の把手《ノッブ》を捻《ねじ》ってみると鍵が下りているので、ルキーンは検事を振り仰いで、
「一つ、そこに下っている綱を引っ張ってみて下さい。それで鳴る鳴子《なるこ》が親爺《おやじ》の方にも娘の方にも、両方の室にあるのですから。」
ところが、検事が懸命に引く鳴子に対して、内部《なか》から誰一人応ずるものがない。そのくせ、内部で鳴っている音が、戸外《そ
前へ
次へ
全37ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング