死体になったはずのラザレフが歩いていたと云うジナイーダの言を考えると、肉体を離れた執拗な魂魄――ある種の動物磁気にすこぶる鋭敏だと云う説であるが――それを操って、跫音《あしおと》を現わし一方では、鐘を奇蹟的に動かした、一人の神現術者《セオソフィスト》が存在するのではないかとも思われる。だが、そう考えることは、彼にとってこの上もない屈辱だったのだ。やがて、法水は今までにない緊張をこめてジナイーダに問いを発したが、その内容は雑談以上のものとは思われなかった。
「時に妙な質問ですが、貴女《あなた》がいられた修道院と云うのは?」
「ハア、ビーンロセルフスクにありましたが、」
「すると、何派ですか。」
「トラヴィストでございます。」
「ああ、トラヴィスト。」それだけで法水の言葉がブッツリ杜絶《とぎ》れたが、その後数秒に渉《わた》って、二人の間に凄愴《せいそう》な黙闘が交されているように思われた。しかし、その時鑑識課員が姉妹の指紋を採りに入ってきたので、偶然緊迫した空気が解《ほぐ》れて、一同はやっと一息|吐《つ》くことが出来たのである。
 その間、法水は側の置|洋燈《ランプ》を調べていたが、偶然注目すべき発見にぶつかった。そのナデコフ型置洋燈と云うのは、電燈普及以前|露西亜《ロシア》の上流家庭に流行《はや》ったもので、芯《しん》の加減|捻子《ねじ》がある部分にそれがなく、そこが普通型のものより遙かに大きく小大鼓形をしている。そして、鎧扉《よろいど》式に十数条の縦窓が開くようになっていて、そこから外気が入ると、上方の熱い空気との間に気流が起って、それが中央の筒にある弁を押して回転させ、徐々に芯を押し出すのである。しかし、法水に固唾《かたず》を呑ませたものは、この装置ではなく、安手の襟飾《ネクタイ》を継ぎ合せて貼ってある、台の底だった。彼が何の気なしにそれを剥がして見ると、内側の洋皮紙に――イワン・トドロイッチよりニコライ・ニコラエヴィッチ大公に贈る――と認められてあった。それを肩越しに見て、一人の外事課員が驚いたように云った。
「これですよ――四年程前|巴里《パリー》警察本部から移牒のありましたのは。大公の死後に、手ずから書かれた備品目録の中から、カライクの宝冠と皇帝《ツァール》の侍従長トドロイッチから贈られたこの置洋燈が紛失しているのです。」
「道理で、昼間はこれを寝台の下に隠
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