それに、鹿子が見た光というのが、また問題です。それが、ガラス窓越しに中庭の向うから放たれたのだとすると、見た通りガラス盤の後方は、二人の死蝋が着ている、朱丹と緑青色の布とで塞がっているのですから、あの様に真白に見える、気遣いはないのです。いよいよ以って、妖しい光は、ガラス盤の周囲で起ったことになりますよ。犯人は、明白に吾々四人以外の、霧のような人物です。それなのに、どうして貴方は?」
「その理由はほかにあるのですよ」
 法水は静かにいった。
「で、こういったら、或は皮肉と考えられるかも知れませんが、鹿子の目撃談が[*「鹿子の目撃談が」に傍点]、真実に証明されたからなんです[*「真実に証明されたからなんです」に傍点]。ねえ杏丸さん、その刻限が、恰度博士の絶命時刻に、符号しているでしょう。ですから、暈《ぼつ》とした気体のようなものから、結晶を作ってくれる、媒剤を発見した気持がしたのですよ。つまり、以毒制毒の法則が使えるからです。謎を以って謎を制すのです」
「だが、犯罪の捜査に弁証法は信ぜられませんな」
 杏丸は反駁した。
「何より直覚ですよ。貴方は何故鹿子を追求しないのです?」
「ハハハハハ、ところが、鹿子より以上の嫌疑者がいますぜ」
「なに、鹿子以上の?」
 杏丸は驚いて叫んだ。
「それが杏丸さん、貴方だとしたらどうしますね」
 法水は止めを刺すようにいった。
「先刻、貴方の実験室の棚の中から、こんなものを発見したのです。このくの字なりの木片は、御覧の通り飛去来器《ブーメラング》(いわゆる『飛んで来い』という玩具)です。そして、それを銜《くわ》えている、穴のある紙製の球形は何んでしょうかねえ。僕は大体において、この事件が判ったような気がして来ました。サア、貴方がたは本島の方へ行って、しばらく僕を静かに考えさせて下さい」

三、コスター聖書を曝く

 真積博士をはじめ関係者一同が、片唾をのんでいる席上へ、法水が現われたのは、日没を過ぎて間もなくの事だった。そして、席につくや静かにいった。
「犯人が解りました」
「コスター聖書の在所《ありか》もですか」
 サッと引き緊った空気の中で、まるで殺人事件には関心がないかのよう、鹿子が始めてコスター聖書のことを口に出した。
 その唇は鉛色に変って、戦《おのの》いている顳※[#「需」+「頁」、218−下段12]《こめかみ》からは汗が糸を引き、その眼には明らかに、Oの素晴らしい行列を追うている、卑しい欲求が燃え熾《さか》っている。
「左様、コスター聖書もです。では、順序を追ってお話し致しますが、所で、私を分析にまで導いて呉れた鍵《キー》というのが、何あろう鹿子さん、実は貴女の眼だったのですよ」
 と騒然となった一同を制して、法水は語り始めた。
「如何にも、あの目撃談は真実です。まさに、妖しい白光が起り、内部の膜嚢は動いたのでした。すると、無論その光の光源が、硝子盤の附近にあれば、事実あの室に人間が潜んでいたか、それとも、超自然の妖怪現象になるのですが、飽くまでも実在性を信じたい私は、その光源を、硝子盤の遙か後方に持って行ったのです。けれども、硝子盤の背後には死蝋が着ている、朱丹と緑青色の衣裳があって、それが障碍《しょうがい》になります。然し、この場合は却ってその障碍が、鹿子さんの眼にあり得ない不思議を映したのでした。鹿子さん、たしか貴方の眼は、軽微な赤緑色盲に罹っているのですね」
「それを、よくマア御存知で……」
 と思わず鹿子は、驚嘆の声を発して、法水の顔を呆れたように見入った。
 しかし、法水は事務的に続ける。
「ところで、生理学の術語にフューゲル彩色表という言葉がありますが、彩色した表面に灰色の文字《もじ》を書いて、その上を薄い布で覆うと、色盲には、その字が消えていて読めないのです。あの場合が恰度それに当て嵌っていました。つまり、一口でいうと、後方に起って硝子盤の中に入った光が、赤と緑の布を通過しているのですから、それを透した褐色の腹水は、鹿子さんの眼には灰色としか映《み》えません。従って、なかにある、同じ色の膜嚢は消えてしまったのです。しかもそれが燐寸の火で見た瞬後なのですから、恰度膜嚢が、浮動するような錯覚を起したのですよ。皆さん、こうして私は、硝子盤の後方に、光るものを証明することが出来たのですが、さてその光源が何処にあったかというと、それは幾つかの硝子窓を隔てた、兼常博士の室だったのです」
 そして、法水が飛去来器《ブーメラング》と紙製の球体を取り出したのを見ると、杏丸は顔を伏せ、焦だたし気に爪を噛み始めた。
 法水は続けて、
「実は、この二つのものが、博士の室の対岸にある、杏丸氏の実験室から発見されたのですが、投げた手許に再び戻って来る、飛去来器《ブーメラング》の性能を考えると、どうしても、杏丸氏に疑惑をかけざるを得ません。それにこの、所々円孔の空いた紙製の球体は、花火の弾殻なのですよ。そうすると、膜嚢に有毒気体を充たしたものを孔につめて、弾殻には極く力の弱い煙硝を使い、そして、飛去来器に噛ませて、それを飛ばせたとすれば、適当な場所で煙硝の燃焼から飛び出した膜嚢が、恐らく死因不明の即死を起させやしないでしょうか。勿論、弾殻は飛去来器に伴って、再び手許に戻って来るのですが、その時の火花が、幾つかの硝子窓を通って、屍蝋室の硝子盤に映じたのです」
 その瞬間杏丸に向けて、何やら含んでいそうな視線が、一斉に注がれた。
 が、法水には抑揚さえも変らなかった。
「然し、もう一歩進んで、飛去来器特有の弧線飛行を―殊に復路の大きな弧線―を考えると、杏丸氏の室を基点とする容易い解釈が、実に誤った、皮相な観察に過ぎない事が判るのです」
 それから、見取図に弧線を描いて、法水は説明を続けた。
「御覧の通り、杏丸氏の実験室からでは、位置が一寸|斜《はすか》いになっているので、弧線のために、隣室に打衝《ぶつか》ってしまうのです。また、煙硝が直接火を呼ばないためには、導火線の長さも考えなければなりません。そうすると、飛去来器《ブーメラング》使用の犯行が、すっかり行き詰まってしまうのですが、私は不図した思い付きで、復路が終ろうとする際に、もう一度、飛来する力を与えたらと思いました」
「なに、もう一度……」
 真積博士は、驚いたように顔を挙げたが、その眼を法水は、冷やかに弾き返して、
「つまり、折り返した時の大きな弧線の中途で、反対の方向へ、もう一度弾き飛ばす動力に思い当ったからです。その力が、煙硝の燃焼でした。そうなると、今度は基点が変って、博士と同じ棟にある、河竹の室になるのですが、まず飛去来器を、対岸の杏丸氏の実験室に飛び込ませるとその折返《おりかえ》した大きな弧線が、兼常博士の室に入ります。その時、煙硝が燃えたのですから、膜嚢を排出した時の排気の反動で、恰度ロケットのような現象が現われたのです。ですから、その新しい力を与えられた飛去来器は、再び来た線を逆行して、もとの杏丸氏の実験室の中へ飛び込んでしまったのですよ」
 そうなってみると、一体犯人が誰なのやら、とんと霧中を彷徨うの感じだった。現象的には、解決の近さを感ずるとは云え、肝心な一人の名――それが法水の口から、何時かな容易に洩れようとはしない。
「要するにこれは、犯罪を転嫁しようという行為なのですが、飛去来器といい花火といい、十分理学的に計算出来る性質のものですから、この犯行には相当の確実性があります。使った有毒気体は、屍体に青酸死の徴候がない所を見ると、多分砒化水素だったのでしょう」
「だが、瓦斯は散逸してしまうぜ」
 真積博士は、もう一度反駁した。
「所が一瞬に床へ下降させたものがあったのだ。それに、あの猛烈な濃霧《ガス》さえなければね」
 と法水は皮肉にいい返してから、
「所で、霧の中へ、温度の違う気流が流れると、霧が二つに分れる現象を御存知でしょうか。つまり、ヘルムホルツなどという、偉い学者の名を使わなくても、水蒸気の壁と温度の相違が、散逸を防ぐからなのです、ですから、昨夜の濃霧は、犯人にとると此の上もない好機だったのですが膜嚢が破れて飛び出した砒化水素は、炸裂に際して起る旋廻気流が上方にあったため、それに押されて、長い紐状となって下降して行きました。そして、その一端が、博士の鼻孔に触れたのです」
「すると、犯人は?」
「無論、河竹医学士です」
「では、その河竹を殺した者は?」
「所が、河竹は自殺したのです」
 法水は笑った。ああ、凡ゆる情況が転倒されてしまったのだ。
「河竹の捻《ひねく》れた性根は、自分の悲運を何人かにも負担させようとして、実に驚くべき技巧を案出しました。あの短剣は、横手にある実験用瓦斯の口栓から、発射されたのでした。まず河竹は短剣の柄《つか》を栓の口に嵌め込んでから、そこと元捻迄の鉛管に小さな孔を開けて、其の部分の空気を排気|※[#「くちへん」に「即」、221−上段2]筒《ポンプ》で抜いてしまったのです。そして元捻には蝶形の一方に糸を結び付け、片方の端を、鳩時計の小さい扉の中にある、螺旋に結び付けました。その螺旋は、一時間毎に弛んで、弛んだ時に小扉が開き鳩が動くのですが、勿論その仕事は、時間が来て小扉が開く、直前になされたと見なければなりません。すると、時刻が来て、鳩の出る扉が開くと、糸が押されてピインと張るので、蝶形を引いて瓦斯の栓を開きます。そして、真空の中に噴出する悽じい力が、口元の短剣を発射させたのでした。然し、計量器のねじ[*「ねじ」に傍点]が閉っているので、噴出した僅かな量は、瞬く間に散逸してしまいました。また、一方の糸は手許に引いた機《はず》みに蝶形から抜けて、その後一時間の間に、鳩時計の螺旋の中に納められてしまったのですよ」
「では、やはり河竹が犯人だったのか。それにしても、一体どう云う動機で……」
 と同じような意味を、真積博士と杏丸医学士とが、眼の中で囁き続けているうちにも、法水は舌を休めなかった。
「で、その動機をいうと、自分に兼常博士を殺させたものが、途方もない正体を現わしたからで、それはいうまでもなく、コスター聖書でした。河竹は、漸くその在所《ありか》を知ることが出来たので、強奪を企んで兼常博士を殺したのですが、不思議なことにコスター聖書は、自身を河竹に奪わせなかったのです」
「おお」
 鹿子が思わず狂的な偏執を現わし、卓子の端をギュッと掴んだ。
「如何にも、河竹に続いて、私はコスター聖書の秘蔵場所を突き止めました。それには、無論あの骨牌《カード》に示された、博士の謎を解いたからですが、あれは非常に他愛なく、こんな具合に解けて行くのですよ」
 法水は、始めて莨《たばこ》を取り出し、悠々暗号の解読を始めた。
「大体、モルランド足というのが八本|趾《ゆび》で、普通より三本多いのですから、その剰《あま》った三という数字が、この場合三字を控除せよ――という意味ではないかと思いました。そして、とつおいつの挙句、モンドの三字を除いて、さて残ったラとルとで、今度はラを左へ横倒しにしてみると、丁度その二つが、紙に書いたルの字を裏表から眺めた形になりましょう。これこそ、死蝋室の扉にある。帝釈天の硝子画ではないでしょうか。また鋤《スペード》の女王《クイン》は、そのどう向けても同じ形のところから、井という字の暗示ではないかと考えたのです。それで、硝子画の帝釈が指差している床下を探ると、果してそこに、自然の縦孔があって、コスター聖書はその中から発見されました」
 そういって鹿子に向き直り、法水は莞爾《にっこり》と微笑んだ。
「然し、その所有は明らかに貴女へ帰すべきです」
 法水の衣袋から、時価一千万円に価する稀覯《きこう》本が取り出される刹那は、恐らく歴史的な瞬間でもあったし、また驚異と羨望とで、息吐く者もなかったであろう。が取り出されたものを見ると、一同はアッと叫んだ。
 なんとそれが、聖書は愚か、似てもつかぬ胎児のような形をした、灰色の扁平《ひらべた》いものに過ぎなかったのだ。
 鹿子は怒りを罩め
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