耳に入れて、なぜ私が、この軍船に乗り込まなければならなかったか……、またなぜ、逃れねばならなかったか……、それから、アレウート号がこの島を目指したについての指令を、一応はお聴き分け願いたいと存じまして。でも、それは容易に、御理解できなかろうと思いますわ。あんまり人の世放れのした、それはそれは、不思議な話なんですもの。実は、私サガレンのチウメンで父を殺してまいりました――あのザルキビッチュ・ステツレルをですわ」
 とフローラのこめかみに、一条、真《ま》っ蒼《さお》な血管が浮かび上がると、紅琴は、それを驚いたようにみつめて言った。
「なに、そもじはなんとお言いやった――たしか、ザルキビッチュ・ステツレルと、私は聴きましたが。ではあの、ベーリングの探検船『聖ピヨトル』号に乗り込んだ、博物学者のステツレルはそもじの父なのか」
 フローラは、それを眼色でうなずいて、むしろ冷たく言い返した。
「もっとも、母のドラと従妹《いとこ》だったせいもあるでしょうが、父とベーリングの仲は、それはまたとない間柄だったのです。私は、出発の朝――それが六つの三月でしたけれども、二人には雪割草の花束を贈り、また二人からは、頭をなでられたのを、記憶しております。ところが、ベーリング様は、翌年の十二月八日に、ベーリング島でお亡くなりになりました。父も最初は、チウメンで、その五年後に凍死したという、噂《うわさ》を立てられましたのです。それが気病みとなって、ほどなく母は、私を残してこの世を去ってしまいました。
 ところがそれからも、私の不仕合せはいつから尽きようとはいたしませず、慈悲も憫《あわ》れみもない親族どもは、私をカゴツ(中欧から北にかけて住む一種の賤民《せんみん》)の群れに売り渡してしまったのです。そうして、普魯西《プロシヤ》から波蘭《ポーランド》を経て、魯西亜《オロシャ》の本土に入り、それからは果てしのない旅を続けました。
 その間私は、いつ海が見えるか、見えるかと思いながら、草原《ステップ》の涯《はて》に、それは広大な幻を描いておりました。なぜかと申しますなら、父を奪い去った海、あの自由な不思議な水の国を見て、私は自分の運命を、泣きもしようし悲しみもしようし、またその底深くに、もしやしたら、あきらめがありはしないかと思われたからです。
 そうして、とうとう海に近い、チウメンまでたどりついたのですが、それは氷が割れて、新しい苔《こけ》が芽を吹き出す五月のこと、それでかかった十数年の旅の間に、私はすっかり、熟し切った処女になっておりました。ところが、チウメンに宿を求めた、三日目の夜のこと、私は思いがけなく父に出会ったのでした」
「したが、成人されたそもじを、父はどうして知りやったのじゃ、さぞ幼いころの面影を思い出して、そもじの父は、泣きやったであろうな」
 とわがことのように、紅琴が急《せ》き入るにもかかわらず、フローラはいっこうに表情を変えなかった。
「いいえ、それはこうなのでございます。実は、炉辺のつれづれ話に、うっかり私は、本名を明かしてしまったのです。すると、そばにおりました富有そうな老人が、やにわに私の腕をつかんで、別室に引き入れました。その老人が、以前は『聖ピヨトル号』の船長だった、グレプニツキーだったのです。
 そして、私の父が、今なおこの町に、生存していることを話してくれましたし、何よりその場で、私を父に会わせると誓ってくれました。しかし、翌朝になってみると、この世が現在も未来も、すべてがもの恐ろしい、空虚の底へなだれ込んでしまったのを知りました。
 私は、いつの間にか、壁側の椅子になんということなく腰を掛けていて、この上は苦しみから逃れるために、いっそ生命も尽き、墓石の下で安らかに眠りたいとばかり念じておりました。それは、眼の前に、冷え冷えと横たわっている、一人の老人があったからです。
 父でした――ええ、父ですとも、なんで幼かったとはいえ、私の記憶からあの面影が消え去りましょうか。しかし、父は中風を患ったとみえて、私のことなどさらさら記憶にもなく、おまけに左眼はつぶれ、右手は凍傷のため反り腕になっていて、両手の指は、醜い癩《らい》のようにひしゃげつぶれているのでした。その腕を広げて、あろうことか、私に淫《みだ》らしい挑《いど》みを見せてまいったのです。そして、その獣物《けだもの》のような狂乱が、とうとう私に……」
 とフローラは、長々と尾を引いて、低く低く声を落としたが、続けた。
「ですけど、お慈悲深い基督《キリスト》様は、たぶん私をお許しくださるでしょう。およそ地上に、こうも不思議と神秘に満ちた大いなる愛があるでしょうか。私は、父の死後の生活を思って、同じ血同じ肉の交らいを、犯させまいとして、父を刺し殺したのでございます。ですけど、父と
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