tの水煙が、眼に見えない手で導かれたのだよ。そして、この室の窓に、おどろと漂い寄って来たものがあったのだ。いいかね支倉君、それがこの事件の悪魔学《デモノロジイ》なんだぜ。病的な、しかもこれほど公式的な符号が、事実偶然にそろうものだろうか」
 その一事は、かつて検事が、疑問一覧表の中に加えたほどで、磅※[#「石+(蒲/寸)」、第3水準1−89−18]《ほうはく》と本体を隔てている捕捉し難い霧のようなものだった。しかし、こう法水から明らさまに指摘されてしまうと、この事件の犯罪現象よりも、その中に陰々とした姿で浮動している瘴気《しょうき》のようなものの方に、より以上|慄然《ぞっ》とくるものを覚えるのだった。が、その時|扉《ドア》が開いて、私服に護衛されたセレナ夫人とレヴェズ氏が入って来た。ところが、入りしなに三人の沈鬱な様子を一瞥《いちべつ》したとみえて、あの見たところ温和そうなセレナ夫人が、碌々《ろくろく》に挨拶も返さず、石卓の上に荒々しい片手突きをして云った。
「ああ、相も変らず高雅な団欒《だんらん》でございますことね。法水さん、貴方はあの兇悪な人形使いを――津多子さんをお調べになりまして」
「なに、押鐘津多子を※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」それには、法水もさすがに驚かされたらしかった。「すると、貴方がたを殺すとでも云いましたかな。いや、事実あの方には、とうてい打ち壊すことの出来ない障壁があるのです」
 それに、レヴェズ氏が割って入った。そして、相変らず揉み手をしながら、阿《おもね》るような鈍い柔らか味のある調子で云った。
「ですが法水さん、その障壁と云うのが、儂《わし》どもには心理的に築かれておりますのでな。お聴き及びでしょうが、あのかたは、御夫君もあり自邸もあるにかかわらず、約一月ほどまえから、この館に滞在しておるのです。だいたい理由もないのに、御自分の住居《すまい》を離れて、何のために……いや、まったく子供っぽい想像ですが」
 それを法水は押冠せるように、「いや、その子供なんですよ。だいたい人生の中で、子供ほど作虐的《ザディスティッシュ》なものはないでしょうからな」と突き刺すような皮肉をレヴェズ氏に送ってから、「時にレヴェズさん、いつぞや――|確かそこにあるは薔薇なり、その附近には鳥の声は絶えて響かず《ドッホ・ローゼン・ジンテス・ウォバイ・カイン・リード・メール・フレテット》――と、レナウの『|秋の心《ヘルプスト・ゲフュール》』のことを訊ねましたっけね。ハハハハハ、御記憶ですか。しかし、僕は一言注意しておきますが、この次こそ、貴方が殺される番になりますよ」となんとなく予言めいた、またそこに、法水独特の反語逆説が潜んでいるようにも思われる、妙に薄気味悪い言葉を吐いた。すると、その瞬間レヴェズ氏に、衝動的な苦悶の色が泛《うか》び上ったが、ゴクリと唾《つば》を嚥《の》み込むと、顔色を旧《もと》どおりに恢復して云い返した。
「まったく、それと同様なんです。得体の判らない接近というものは、明らさまな脅迫よりも、いっそう恐怖的なものですからな、しかし、儂《わし》どもに寝室の扉に閂《かんぬき》を下させたり、またそれを、要塞のように固めさせるに至った原因というのは、けっして昨今の話ではないのですよ。実は、あの晩の神意審問会と同様の出来事が、以前にも一度繰り返されたことがあったのです」とレヴェズ氏は顔を引き緊め、つい寸秒前に行われた、法水との黙劇を忘れたかのように、語りはじめたものがあった。
「それは、先主が歿《みまか》られてから間もなくのことで、去年の五月の初めでしたが、その夜は、ハイドンのト短調|四重奏《クワルテット》曲の練習を、礼拝堂でやることになりました。ところが、曲が進行しているうちに、突然グレーテさんが、何か小声で叫んだかと思うと、右手の弓《キュー》が床の上に落ち、左手もしだいにダラリと垂れていって、開いてある扉《ドア》の方を凝然《じっ》と瞶《みつ》めているのでした。勿論、儂《わし》ども三人は、それを知って演奏を中止いたしました。すると、グレーテさんは、左手に持った提琴《ヴァイオリン》を逆さに扉《ドア》の方へ突き付けて、津多子さん、そこにいたのは誰です?――と叫んだのです。案の定|扉《ドア》の外からは、津多子さんの姿が現われましたけども、あの方はいっこう解せぬような面持で、いいえ誰もいない――と云うのでした。ところが、それを聴くと、グレーテさんは何と云ったことでしょうか。声を荒らげて、儂《わし》どもの血が一時に凍りつくような言葉を叫ばれたのです。確かそこには算哲様が[#「確かそこには算哲様が」に傍点]――と」と云った時に、総身を恐怖のために竦《すく》めて、セレナ夫人はレヴェズの二の腕をギュッと掴んだ。その肩口を、レヴェズは労《いた》わるように抱きかかえて、あたかも秘密の深さを知らぬ者を嘲笑するような眼差を、法水に向けた。
「勿論|儂《わし》は、その疑題《クエスチョネーア》に対する解答が、神意審問会のあの出来事となって現われたと信じておるのです。いや、元来|心霊主義《スピリチュアリズム》には縁遠い方でしてな。そう云った神秘玄怪な暗合というものにも、必ずや教程公式があるに相違ない――と。いいですかな法水さん、貴方が探し求めておられる|薔薇の騎士《ローゼン・カヴァリエル》は、その二回にわたる不思議とも、異様に符合しておるのですぞ。それは云うまでもない、津多子さんにほかならんのです」
 その間法水は、黙然と床を瞶《みつ》めていたが、まるで、ある出来事の可能性を予期してかのような、弱々しい嘆息を洩らした。そして、「とにかく、今後貴方の身辺には、特に厳重な護衛をおつけしましょう。それから、また貴方に、『|秋の心《ヘルプスト・ゲフュール》』をお訊ねしたことを、改めてお詫びしておきます」と再び、他《はた》ではとうてい解しきれぬような奇言を吐いてから、彼は問題を事務的な方面に転じた。
「ところで、今日の出来事当時は、どこにお出かけになりましたか」
「ハイ、私は自分の室《へや》で、ジョオコンダ([#ここから割り注]聖バーナード犬の名[#ここで割り注終わり])の掃除をいたしておりました」とセレナ夫人は躊《ひる》まずに答えてから、レヴェズの方を向いて「それに、確かオットカールさん([#ここから割り注]レヴェズの名[#ここで割り注終わり])は、驚駭噴泉《ウォーター・サープライズ》の側にいらっしゃいましたわね」
 その時レヴェズ氏の顔には、ただならぬ狼狽《ろうばい》の影が差したけれども、「いやガリバルダさん、鏃《やじり》と矢筈《やはず》を反対にしたら、たぶん、弩の絃《いと》が切れてしまうでしょうからな」といかにも上ずった、不自然な笑声で紛らせてしまったのである。そうして二人は、なおも煩々《くどくど》しく、津多子の行動について苛酷な批判を述べてから、室を出て行った。二人の姿が扉《ドア》の向うに消えると、それと入れ違いに、旗太郎以下四人の不在証明《アリバイ》が私服によってもたらされた。それによると、旗太郎と久我鎮子は図書室に、すでに恢復していた押鐘津多子は、当時階下の広間《サロン》にいたことが証明されたけれど、不思議な事には、この時もまた、伸子の動静だけが不明で、誰一人として、彼女の姿を目撃した者がないのだった。以上の調査を私服から聴き終ると、法水はひどく複雑な表情を泛《うか》べ、実にこの日三度目の奇説を吐いた。
「ねえ支倉君、僕にはレヴェズの壮烈な姿が、絶えず執拗《しつ》っこくつき纏《まと》っているのだがね。あの男の心理は、実に錯雑をきわめているのだ。あるいは誰かを庇《かば》おうとしての騎士的精神かもしれないし、またああいう深刻な精神葛藤が、すでにもう、あの男に狂人の境界を跨《また》がせているのかも判らない。だが、なにより濃厚なのは、あの男が死体運搬車に乗っている姿なんだよ」となんら変哲もないレヴェズの言動に異様な解釈を述べ、それから噴泉の群像に眼がゆくと、彼は慌《あわ》てて出しかけた莨《たばこ》を引っ込めた。「では、これから驚駭噴泉《ウォーター・サープライズ》を調べることにしよう。恐らく犯人であると云う意味でなしに、今日の事件の主役は、きっとレヴェズに違いないのだ」
 その驚駭噴泉《ウォーター・サープライズ》の頂上は、黄銅製のパルナス群像になっていて、水盤の四方に踏み石があり、それに足をかけると、像の頭上からそれぞれの側に、四条の水が高く放出される仕掛になっていた。そして、その放水が、約十秒ほどの間継続することも判明した。ところが、その踏み石の上には、霜溶けの泥が明瞭な靴跡となって残っていて、それによるとレヴェズ氏は、その一つ一つを複雑な経路で辿《たど》って行って、しかもそれぞれに、ただの一度しか踏んでいないことが明らかになった。すなわち、最初は本館の方から歩んで来て、一番正面の一つを踏み、それから、次にその向う側を、そして三度目には右側のを、最後には、左側の一つを踏んで終っている。しかし、その複雑きわまる行動の意味が、いったい那辺にあるのか、さすがに法水でさえ、皆目その時は見当がつかなかった。
 それから、本館に戻ると、一昨日訊問室に当てた例の開けずの間、すなわちダンネベルグ夫人が死体となっていた室《へや》で、まず最初の喚問者として伸子を喚《よ》ぶことになった。そして、彼女が来るまでの間に、どこからとなく法水の神経に、後にはそれと頷《うなず》かせた、異様な予感が触れてきたと云うのは、数十年|以来《このかた》この室に君臨していて、幾度か鎖され開かれ、また、何度か流血の惨事を目撃してきた――あの寝台の方に惹《ひ》かれていったのだった。彼は帷幕《カーテン》の外から顔を差し入れただけで、思わずハッとして立ち竦《すく》んでしまった。前回には些《いささ》かも覚えなかったところの、不思議な衝動に襲われたからだ。死体が一つなくなっただけで、帷幕《カーテン》で区切られた一劃には、異様な生気が発動している。あるいは、死体がなくなって構図が変ったので、純粋の角と角、線と線との交錯を眺めるために起った、心理上の影響であるかもしれない。
 けれども、それとはどこか異なった感じで、同じ冷たさにしても、生きた魚の皮膚に触れるといったような、なんとなくこの一劃の空気から、微かな動悸《どうき》でも聴えてきそうであって、まあ云わば、生体組織《オーガニズム》を操縦している、不思議の力があるのを浸々と感ずるのだった。しかし、検事と熊城に入られてしまうと、法水の幻想は跡方もなく飛び散ってしまった。そして、やはり構図のせいかなと思うのだった。法水はこの時ほど、寝台を仔細に眺めたことはなかった。
 天蓋を支えている四本の柱の上には、松毬《まつかさ》形をした頂花《たてばな》が冠彫《かしらぼり》になっていて、その下から全部にかけては、物凄いほど克明な刀の跡を見せた、十五世紀ヴェネチアの三十櫓楼船《ブチントーロ》が浮彫になっていた。そして、その舳《みよし》の中央には、首のない「ブランデンブルクの荒鷲」が、極風に逆らって翼を拡げているのだった。そういう、一見|史文《しぶん》模様めいた奇妙な配合《とりあわせ》が、この桃花木《マホガニー》の寝台を飾ってる構図だったのである。そして、ようやく法水が、その断頸鷲の浮彫から顔を離した時だった。静かに把手《ノッブ》の廻転する音がして、喚《よ》ばれた紙谷伸子が入って来た。
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  第六篇 算哲埋葬の夜
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    一、あの|渡り鳥《ワンダー・フォーゲル》……二つに割れた虹

 紙谷伸子《かみたにのぶこ》の登場――それが、この事件の超頂点《ウルトラ・クライマックス》だった。と同時に、妖気|※[#「示+駸のつくり」、第4水準2−82−70]気《しんき》の世界と人間の限界とを区切っている、最後の一線でもあったのだ。何故なら事件中の人物は、クリヴォフ夫人を最終にしてことごとく篩《ふる》い尽されてしまい、つい
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