フ中頃になると、もう手も足も萎《な》えきってしまって、視界がしだいに朦朧となってまいりました。その症状を、久我さんは微弱な狂妄――と仰言います。病理的な情熱の破船状態だと云います。その時は、必ず極端に倫理的なものが、まるで軍馬のように耳を※[#「奇+攴」、第4水準2−13−65]《そばだ》てながら身を起してくる――と申されます。しかもそれが、最高浄福の瞬間だそうですけども、けっして倫理的《エーティッシュ》ではある代りに道徳的《モラリッシュ》ではなく、そこにまた、殺人の衝動を否《いな》むことは出来ぬ――とあの方は仰言いました。ああ、これでも、貴方がお考えになるような、詩的な告白なのでございましょうか」と熊城に冷たい蔑視を送ってから、当時の記憶を引き出した。
「で多分、こういう現象の一部に当るのでしょうか、自分では何を弾いているのか無我夢中のくせに、寒風が私の顔を、斑《まだら》に吹き過ぎて行くことだけは、妙に明瞭《はっきり》と知ることが出来ましたものね。云わば、冷痛とでもいう感覚でしたでしょう。けれども、絶えずそれが、明滅を繰り返しては刺激を休めなかったので、ようやく経文歌《モテット》の三
前へ 次へ
全700ページ中430ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング