o来ます。ですから、クリヴォフ夫人や易介《えきすけ》の事件は、動機を見当違いの遺産に向けさせようとしたり、あるいはまた、それを作虐的《ザディスティッシュ》に思わせんがためなのでした。勿論、伸子のごときは、最も陰険兇悪をきわめた、つまり、あの悪鬼特有の擾乱《じょうらん》策と云うのほかにないのですよ」と法水は始めて莨《たばこ》を取り出したが、声音に漲《みなぎ》っている悪魔的な響だけは、どうしても隠すことは出来なかった。続いて、彼は驚くべき結論を述べた。「ですから、それが、今日伸子に虹を送った心理であり、またそれ以前には、貴方とダンネベルグ夫人との秘密な恋愛関係なのでした」
ああ、レヴェズとダンネベルグ夫人との関係――それは、よし神なりとも知る由はなかったであろう。まったくその瞬間、レヴェズは死人のように蒼《あお》ざめてしまった。咽喉《のど》が衝動的に痙攣《けいれん》したと見えて、声も容易に出ぬらしい。そして、頸筋《くびすじ》の靱帯《じんたい》を鞭繩のようにくねらせながら、まるで彫像のよう、あらぬ方を瞶《みつ》めているのだった。それが、実に長い沈黙だった。窓越しにハツラツと噴泉の迸《ほとばし》る音が聞え、その飛沫《しぶき》が、星を跨《また》いで薄白く光っているのだ。事実、最初は法水のよくやる手――と思い、十分警戒していたにもかかわらず、ついに意表に絶した彼の透視が、その墻《かき》を乗り越えてしまった。そうして、勝敗の機微を、この一挙に決定してしまったのだった。やがて、レヴェズは力なく顔を上げたが、それには、静かな諦《あきら》めの色が泛《うか》んでいた。
「法水さん、儂《わし》は元来非幻想的な動物です。しかし、だいたい貴方という方には、どうも遊戯的な衝動が多い。いかにも、虹を送ったことだけは肯定しましょう。しかし、儂は絶対に犯人ではない。ダンネベルグ夫人との関係などは、実に驚くべき誹謗《ひぼう》です」
「いや、御安心下さい。これが二時間前ならばともかく、現在では、あの禁制があってもすでに無効です。もう何人《なんぴと》といえども、貴方の持ち分相続を妨げることは不可能なのですから。それより問題と云うのは、あの虹と窓にあるのですが……」
するとレヴェズは困憊《こんぱい》の中にも悲愁な表情を見せて云った。
「いかにも、あの当時伸子が窓際に見えたので、やはり武具室にいると思い、儂《わし》は虹を送りました。しかし、天空の虹は抛物線《パラボリック》、露滴の水は双曲線《ハイパーボリック》です。ですから、虹が楕円形《イリプティック》でない限り、伸子は儂《わし》の懐《ふところ》に飛び込んでは来ないのですよ」
「ですが、ここに奇妙な符合がありましてな。と云うのは、あの鬼箭《おにや》ですが、それがクリヴォフ夫人を吊し上げて突進し、さてそれから突き刺った場所と云えば、やはり、あの同じ門でした。つまり、貴方の虹もそこから入り込んでいった――鎧扉《よろいど》の棧だったのです。ねえレヴェズさん、因果応報の理というものは、あながち、復讐神《ネメシス》が定めた人間の運命にばかりではないのですからね」となんとはなしに不気味な口吻《こうふん》を洩らして、ジリジリ迫ってゆくと、いったんレヴェズは、総身を竦《すく》めて弱々しい嘆息を吐いた。が、すぐ反噬《はんぜい》的な態度に出た。
「ハハハハ、下らぬ放言はやめにして下さい。法水さん、儂《わし》ならあの三叉箭《ボール》が、裏庭の蔬菜園から放たれたのだと云いますがな。何故なら、今は蕪菁《かぶら》の真盛《まっさか》りですよ。矢筈《やはず》は蕪菁、矢柄《やがら》は葭《よし》――という鄙歌《ひなうた》を、たぶん貴方は御存じでしょうが」
「さよう、この事件でもそうです。蕪菁は犯罪現象、葭は動機なのです。レヴェズさん、その二つを兼ね具えたものと云えば、まず貴方以外にはないのですよ」とにわかに酷烈な調子となって、法水の全身が、メラメラ立ち上る焔のようなものに包まれてしまった。「勿論ダンネベルグ夫人は他界の人ですし、伸子もそれを口に出す道理はありません。しかし、事件の最初の夜、伸子が花瓶を壊した際に、たしか貴方はあの室《へや》にお出でになりましたね」
レヴェズは思わず愕然《がくっ》として、肱掛を握った片手が怪しくも慄《ふる》え出した。
「それでは、儂《わし》が伸子に愛を求めたのを発見されたために、持分を失うまいとして、グレーテさんを殺したのだ――と。莫迦《ばか》な、それは貴方《あんた》の自分勝手な好尚《このみ》だ。貴方は、歪んだ空想のために、常軌を逸しとるのです」
「ところがレヴェズさん、その解式と云うのは、貴方が再三|打衝《ぶつか》って御存じのはずですがね。|そこにあるは薔薇なりその辺りに鳥の声は絶えて響かず《ドッホ・ローゼン・ジンテス・
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