価は困難だよ。依然降矢木Xさ」と検事は容易に首肯した色を見せなかった。そして、暗に算哲の不思議な役割を仄《ほの》めかすと、法水もそれに頷《うなず》いて、劇《はげ》しい皮肉を酬いられたかのように、錯乱した表情を泛《うか》べるのだった。事実、それが幽霊のような潜在意識だとすれば、恐らく法水の勝利であろう。けれども、もし単に、一場の心的錯誤《パラムネジイ》だとしたら、それこそ推理測定を超越した化物に違いないのである。乙骨医師は時計を見て立ち上ったが、この毒舌家は、一言皮肉を吐き捨てるのを忘れるような親爺《おやじ》ではなかった。
「さて、今夜はもう仏様も出まいて。しかし法水君、問題は、空想より論理判断力のいかんにあるよ。その二つの歩調が揃うようなら、君もナポレオンになれるだろうがな」
「いや、トムセン([#ここから割り注]丁抹(デンマーク)の史学者。バイカル湖畔南オルコン河の上流にある突厥人の古碑文を読破せり[#ここで割り注終わり])で結構さ」と法水は劣らず云い返したが、その言葉の下から、俄然ただならぬ風雲を捲き起してしまった。「勿論僕に、たいした史学の造詣《ぞうけい》はないがね。しかし、この事件では、オルコン以上の碑文を読むことが出来たのだ。君はしばらく広間《サロン》にいて、今世紀最大の発掘を待っていてくれ給え」
「発掘※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」熊城は仰天せんばかりに驚いてしまった。しかし、法水が心中何事を企図しているのか知る由はないといっても、その眉宇《びう》の間に泛《うか》んでいる毅然《きぜん》たる決意を見ただけで、まさに彼が、乾坤一擲《けんこんいってき》の大賭博《おおばくち》を打たんとしていることは明らかだった。間もなく、この胸苦しいまでに緊迫した空気の中を、乙骨医師と入れ違いに、喚《よ》ばれた田郷真斎が入って来ると、さっそく法水は短刀直入に切り出した。
「僕は率直にお訊ねしますが、貴方は、昨夜八時から八時二十分までの間に邸内を巡回して、その時古代時計室に鍵を下したそうでしたね。しかし、その頃から姿を消した一人があったはずです。いいえ田郷さん、昨夜神意審問会の当時この館にいた家族の数は、たしか五人ではなく、六人でしたね」
 途端に、真斎の全身が感電したように[#「感電したように」は底本では「感電しように」]戦《おのの》いた。そして、何か縋《すが》りたいものでも探すような恰好で、きょろきょろ四辺《あたり》を見廻していたが、いきなり反噬《はんぜい》的な態度に出て、
「ホホウ、この吹雪の最中に算哲様の遺骸を発掘するとなら、あんた方は令状をお持ちとみえますな」
「いや、必要とあらば、たぶん法律ぐらいは破りかねぬでしょう」と法水は冷然と酬い返した。が、この上真斎との応酬を無用とみて、率直に自説を述べはじめた。
「だいたい、貴方がおいそれと最初から口を開こうなどとは、夢にも期待していなかったのですよ。ですから、まず僕の方で、その消え失せた一人を、外包的に証明してゆきましょう。ところで貴方は、盲人の聴触覚標型という言葉を御存じですか。盲人は視覚以外のあらゆる感覚を駆使して、その個々に伝わってくる分裂したものを綜合するのです。そうして、自分に近接している物体の造型を試みようとするのですよ。ねえ田郷さん、勿論僕の眼に、その人物の姿が映ろう道理はありません。しかも、物音も聴かなければ、その一人に関する些細《ささい》な寸語さえ耳にしていないのです。しかし、この事件の開始と同時に、ある一つの遠心力が働いて、そうしてその力が、関係者の圏外はるかへ抛擲《ほうてき》してしまった一人があったのですよ。僕は、最初この館に一歩踏み入れたとき、すでにある一つの前兆とでも云いたいものを感じました。それを、召使《バトラー》の行為から観取することが出来たのでしたよ」
「すると、僕が訊ねた……」検事は異様に亢奮《こうふん》して叫んだ。そして、自分の疑念が氷解してゆく機に、達したのを悟ったのであった。法水は、検事に微笑で答えてから続けた。
「つまり、この神経黙劇にとると、最初|召使《バトラー》に導かれて大階段を上って行った時が、そもそもの開緒《アインライツング》なのでした。その折、喧《けたた》ましい警察自動車の機関《エンジン》の響がしていたのですが、その召使《バトラー》は、僕の靴が偶然|軋《きし》って微かな音を立てると、何故か先に歩んでいるにもかかわらず、竦《すく》んだような形で、身体を横に避けるのです。僕はそれを悟ると、思わず、神経に衝《つ》き上げてくるものがありました。ですから、階段を上り切るまでの間、試みに再三同じ動作を演じてみたのですが、そのつど、召使《バトラー》も同様のものを繰り返してゆくのです。明らかに、この無言の現実は、何事かを語ろうとしています。そ
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