もその場去らずに縊死《いし》を遂げてしまった。そして、この二つの他殺事件にはいっこうに動機と目されるものがなく、いやかえって反対の見解のみが集まるという始末なので、やむなく、衝動性の犯罪として有耶無耶《うやむや》のうちに葬られてしまったのだよ。ところで、主人を失った黒死館では、一時算哲とは異母姪《いぼてつ》に当る津多子――君も知ってのとおり、現在では東京神恵病院長|押鐘《おしがね》博士の夫人になってはいるが、かつては大正末期の新劇大女優さ――当時三歳にすぎなかったその人を主《あるじ》としているうちに、大正四年になると、思いがけなかった男の子が、算哲の愛妾岩間富枝に胎《みごも》ったのだ。それがすなわち、現在の当主旗太郎なんだよ。そうして、無風のうちに三十何年か過ぎた去年の三月に、三度動機不明の変死事件が起った。今度は算哲博士が自殺を遂げてしまったのだ」と云って、側《かたわら》の|書類綴り《ファイルブック》を手繰り寄せ、著名な事件ごとに当局から送ってくる、検屍調書類の中から、博士の自殺に関する記録を探し出した。
「いいかね――」
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 ――創《きず》は左第五第六肋骨間を貫き左心室に突入せる、正規の創形を有する短剣刺傷にして、算哲は室《へや》の中央にてその束《つか》を固く握り締め、扉を足に頭を奥の帷幕《たれまく》に向けて、仰臥の姿勢にて横たわれり。相貌には、やや悲痛味を帯ぶと思われる痴呆状の弛緩を呈し、現場は鎧扉を閉ざせる薄明の室にして、家人は物音を聴かずと云い、事物にも取り乱されたる形跡なし、尚《なお》、上述のもの以外には外傷はなく、しかも、同人が西洋婦人人形を抱きてその室に入りてより、僅々十分足らずのうちに起れる事実なりと云う。その人形と云うは、路易《ルイ》朝末期の格檣襞《トレリ》服をつけたる等身人形にして、帷幕の蔭にある寝台上にあり、用いたる自殺用短剣は、その護符刀ならんと推定さる。のみならず、算哲の身辺事情中には、全然動機の所在不明にして、天寿の終りに近き篤学者《とくがくしゃ》が、いかにしてかかる愚挙を演じたるものや、その点すこぶる判断に苦しむところと云うべし――。
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「どうだね支倉君、第二回の変死事件から三十余年を隔てていても、死因の推定が明瞭であっても動因がない――という点は、明白に共通しているのだ。だから、そこに潜んでいる眼に見えないものが、今度ダンネベルグ夫人に現われたとは思えないかね」
「それは、ちと空論だろう」と検事はやり込めるような語気で、「二回目の事件で、前後の聯関が完全に中断されている。何とかいう上方役者は、降矢木以外の人間じゃないか」
「そうなるかね。どこまで君には手数が掛るんだろう」と法水は眼で大袈裟《おおげさ》な表情をしたが、「ところで支倉君、最近現われた探偵小説家に、小城魚太郎《こしろうおたろう》という変り種がいるんだが、その人の近著に『近世迷宮事件考察』と云うのがあって、その中で有名なキューダビイ壊崩録を論じている。ヴィクトリア朝末期に栄えたキューダビイの家も、ちょうど降矢木の三事件と同じ形で絶滅されてしまったのだ。その最初のものは、宮廷詩文正朗読師の主キューダビイが、出仕しようとした朝だった。当時不貞の噂《うわさ》が高かった妻のアンが、送り出しの接吻をしようとして腕を相手の肩に繞《めぐ》らすと、やにわに主は短剣を引き抜いて、背後の帷幕《とばり》に突き立てたのだ。ところが、紅《あけ》に染んで斃《たお》れたのは、長子のウォルターだったので、驚駭《きょうがい》した主は、返す一撃で自分の心臓を貫いてしまった。次はそれから七年後で、次男ケントの自殺だった。友人から右頬に盃《グラス》を投げられて決闘を挑まれたにもかかわらず、不関気《しらぬげ》な顔をしたと云うので、それが嘲笑の的となり、世評を恥じた結果だと云われている。しかし、同じ運命はその二年後にも、一人取り残された娘のジョージアにも廻《めぐ》ってきた。許娘者《いいなずけ》との初夜にどうしたことか、相手を罵《ののし》ったので、逆上されて新床の上で絞殺されてしまったのだ。それが、キューダビイの最期だったのだよ。ところが小城魚太郎は、とうてい運命説しか通用されまいと思われるその三事件に、科学的な系統を発見した。そして、こういう断定を下している。結論は、閃光的に顔面右半側に起る、グプラー痳痺[#「痳痺」はママ]の遺伝にすぎないという。すなわち主の長子刺殺は、妻の手が右頬に触れても感覚がないので、その手が背後の帷幕《とばり》の蔭にいる密夫に伸べられたのでないかと誤信した結果であって、そうなると、次男の自殺は論ずるまでもなく、娘もやはりグプラー痳痺[#「痳痺」はママ]のために、愛撫の不満を訴えたためではないかと推断している
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