ゥら入り込んでゆくのを、眺めていた。ところが、あの樹皮亭《ボルケンハウス》の内枠には、様々な詩文が刻み込まれていて、その中にフィッツナーの|その時霧は輝きて入りぬ《ダン・ネーベル・ロー・グクテン》(Dann, Nebel−loh−guckten)――の一文があったのだ。つまり、その際の混淆《こんこう》された印象が丁抹国旗《ダーネブローグ》という、相似した失語になって現われたのだよ。そうすると支倉君、あの四句に分れていた伸子の言葉の中で、鐘鳴室《カリルロン》と武具室と――こう二つの印象だけが、奇妙にも、真中に挾まれている。となると……」と言葉を切って、その驚くべき心理分析に、法水は、最後の結論を与えた。
「すると当然、その首尾にある黄と紅――。その二つからうけた感覚が、最初のダンネベルグ事件と、終りの礼拝堂の場面でなければならないだろう。そうして、最後の紅が、絢爛《けんらん》たる宮廷楽師《カペルマイスター》の朱色の衣裳だとすれば、何故最初のダンネベルグ事件から、伸子は、黄という感覚をうけたのだろうか」そのあいだ検事と熊城は、さながら酔えるがごとき感動に包まれていた。が、ややあってから、熊城はおもむろに不明な点を訊ねた。
「しかし、礼拝堂で暗中に聞えたという二つの唸《うな》りには、伸子か旗太郎か――そのいずれかを、決定するものがあるように思われるんだが」
「それは、死点《デッドポイント》と焦点《フォーカス》の如何《いかん》――つまり、音響学の単純な問題にすぎないのさ。たぶんクリヴォフ夫人の位置が、伸子がペダルで出した唸りに対して、死点《デッドポイント》。旗太郎の弓《キュー》が擦《す》れ合って起った響には、あの微かな囁《ささや》きさえも、聴き取れるという焦点《フォーカス》だったに相違ないのだ。そして、夫人が伸子の方に寄ったところを、背後から刺し貫いたのだ。ねえ支倉君、これ以上論ずる問題はないと思うが、ただただ憐憫《れんびん》を覚えるのは、伸子に操られて鞠沓《まりぐつ》を履《は》かせられ、具足まで着せられた暗愚な易介なんだよ」そう云ってから法水は、最初から順序を追い、伸子の行動を語りはじめた。勿論それによって、ピロカルピンの服用も、一場の悪狡《わるがしこ》い絵狂言であることが判明した。それから、語り終えると法水は言葉を改めて、いよいよ、黒死館殺人事件の核心をなす疑義中の疑義
前へ
次へ
全350ページ中347ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング