Aダンネベルグ夫人は当然見ることが出来なかっただろう。また、それ以外の人達も、この異常な雰囲気のために、恐らく周囲の識別を失っていただろうからね。気づかない方がむしろ当然だと云いたいくらいなのだよ。そうすると、ダンネベルグ夫人が倒れるとすぐ、伸子が隣室から水を持って来た――という事が、あるいは伸子に疑惑をもたらすかもしれない。つまり、それ以前|既《とう》に、彼女は室《へや》を出ていて、あらかじめこの事を予期していたために、水を用意していた――とも云えるだろう。けれども、勿論この推測は、ある行為の可能性を指摘したまでの話で、当然証拠以上のものでないのだよ」
「たしか、この微孔は犯人の細工には違いあるまいがね」と検事は深く顎《あご》を引いたが、問い返した。「けれども、あの時ダンネベルグ夫人は、算哲と叫んで卒倒したのだったぜ。たぶんそれが、あの女の幻覚ばかりのせいじゃあるまいと思うよ」
「明察だ。けっして、単純な幻覚ではない。ダンネベルグ夫人は、たしかリボーのいわゆる第二視力者《セカンド・サイター》――つまり、錯覚からして幻覚を作り得る能力者[#「錯覚からして幻覚を作り得る能力者」に傍点]だったに違いない。それは、聖《セント》テレザにも乳香入神などと云われているんだが、薫烟《くんえん》や蒸気の幕を透《とお》して見ると、凹凸がいっそう鮮かになり、またその残像が、時折奇怪な像を作ることがあるのだ。つまり、この場合は、両端の蝋燭《ろうそく》から見て内側にいる二人――つまり、鎮子とクリヴォフ夫人との顔が、凝視のため複視的に重なり合ったのだろう。そして、恐らくその錯覚が因で、ダンネベルグ夫人は幻視を起したに相違ないのだよ。それを、リボーは人間精神最大の神秘力と云って、ことに中世紀では、最も高い人間性の特徴と見なされていたのだ。ああ、きっとダンネベルグ夫人には、かつてのジャンヌ・ダルクや聖テレザと同じに、一種の比斯呈利《ヒステリー》性幻視力が具わっていたに違いないのだよ」
こうして、法水の推理が反転躍動していって、あの夜張出縁に蠢《うごめ》いていて乾板を取り落した人物にも、既往の津多子以外に、旗太郎以下の三人を加えることが出来た。まさにその時、法水の戦闘状態は、好条件の絶頂にあった。あるいは、事件が今夜中に終結するのではないかと思われたほどに、彼の凄愴《せいそう》な神経運動《ナーヴ
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