L子の嘘《うそ》が成立しなくなるのです。あの女は、蹌踉《よろめ》いた拍子に『聖ウルスラ記』を花瓶に当てて倒したと云いました。しかし、その花瓶というのが入口の向う端にあるのですから、当時伸子の体位と花瓶の位置を考えると、とうていその局状《シチュエーション》は成立する道理がないのです。まず伸子が左利《ひだりきき》でない限りは、『聖ウルスラ記』を右手から投げて頭上を越え、それを花瓶に打衝《ぶっつ》けるということは、全然不可能だろうと思われるのです。そこで僕は、エルブ点反射を憶い出しました。それは、上膊《じょうはく》を高く挙げると肩の鎖骨と脊柱との間に一団の筋肉が盛り上ってきて、その頂点に上膊神経の一点が現われるのです。ですからもし、その一点に強い打撃を加えると、その側の上膊部以下に激烈な反射運動が起って、その瞬後には痳痺[#「痳痺」はママ]してしまうのですよ。いや、事実現場にも、エルブ反射を起すに恰好な条件がそろっていたのでして、ちょうどその二冊のあった場所と云うのが、両手を挙げなければ届かぬほどの高さだったからです。ところがレヴェズさん、そうして伸子の嘘《うそ》を訂正してゆくうちに、ふと僕は、当時あの室《へや》に起った実相を描き出すことが出来ました。と云うのは、伸子が『聖ウルスラ記』を取り出そうとして、右手を書棚の上段に差し伸べた際でした。その時、前方の室のどこかで物音がしました。それで、伸子は本を掴んだまま後方を振り向いて、背後にある書棚の硝子扉《ガラスドア》を見たのです。その時彼女の眼に、寝室から出て来たある人物の姿が映ったのでした。ですから、その吃驚《びっくり》した機《はず》みに、隣り合った『|予言の薫烟《ヴァイスザーゲント・ラウフ》』を動かしたのですから、あの千頁にあまる重い木表紙本が、伸子の右肩に落ちたのです。そして、その咄嗟《とっさ》に起った激しい反射運動が因で、右手に持った『聖ウルスラ記』を、頭上越しに左手の花瓶に投げつけたという訳なのですよ。ねえレヴェズさん、そうなると、その『|予言の薫烟《ヴァイスザーゲント・ラウフ》』によって、一つの心的検証を行うことが出来るのです。すなわち、その時寝室に潜んでいた人物に、一つの虚数をつけることが出来るのです。虚数《イマジネリー・ヴァリュー》――しかし、リーマンはそれによって、空間の特質を、単なる|三重に拡がった大きさ
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